Always Look on the Bright Side of Life
まとめです
*時間変えて投稿しました
*時間変えて投稿しました
見上げると、空があった。故郷と変わらず、それは美しい。
澄んだ大気の青の中を、淡い桃色の花びらが、ひらりひらりと横切っていく。
目を奪われた。そこがその、遥か彼方、おとぎの中の世界なのだと、ふとした実感が込み上げた。
少年は目を細める。
――綺麗だ。
1・英雄
夜桜の下で、自転車の男が子供をはねた。
『桜公園』という安直な名前で呼ばれるその公園の、大勢の花見客が宴会を楽しむ喧騒の中で、その小さな事故はさして気に留められなかった。頭にネクタイを巻いた中年男が何人か酔いつぶれて寝ている間に、また一人、子供が倒れこんだだけのことである。
自転車の若い男は、あぁまたしくじったと思った。去年のこんな夜にも、ヨレヨレといった様子で歩いていた男をはねてしまったことがあったのだ。だから公園のライトアップが始まってからは、バイト先からアパートへの近道であるこの公園は、でも使うまいと決めていたのに。今日に限ってなんだか体調も悪いし、偉い人に小言を言われるしで、早く帰りたいという気持ちが先走ってしまったばっかりに。
ところが今年の場合は、去年のように別の男が赤ら顔を更に真っ赤にして掴みかかってくる、なんてことは起こらなかった。所狭しとまではいかないものの、至るところに陣取っているビニールシートの間からふらふらと現れた十いくつの子供は、それを避けようと慌てて進路を変えた前輪に吸い付くように、そしてどしんとぶつかって倒れた。それなのに、両脇のシートのサラリーマンたちはちらりちらりとこちらを見、何事もなかったような顔で、再び酒を煽り始めたのである。運転手の男はひとまず自転車を止めて、ごめん、大丈夫、と声をかけた。すると子供はこちらを見ると、むくりと起き上がって、いそいそと公園の出口の方へと向かっていくのだ。それも小走りで。
その様子に運転手は、ケガはなかろうと思いながらも、控えめに自転車を押して子供を追いかけ始めた。
公園のところかしこで桜がひらりひらりと舞い落ち、二人の肩に頭に降りかかった。いくつかの陽気な歌声は複雑に絡み合って、どこかの現代音楽のわめきのように響いた。
出口まで差し掛かり、湿った地面を蹴る音が聞こえるようになって、男がそろそろ自転車に乗ってもいいだろうと思いはじめたとき、ふと子供は立ち止まって振り向いた。暗闇でも浮き立つ、色白で整った綺麗な顔をしている。その目が男を捕らえたとき、若干嬉しそうな表情を滲ませたのに、疲労によって視界さえ淀んできた男は気付かなかった。
「えっと、ケガなかった?」
今更ながらの質問に、子供は少し戸惑った後、わざわざ自分の四肢をくるくる見回してから返事をした。
「……はい」
頼りなくか細い声だったが、男の子のそれである。ふうと息をついた男は、夜八時を回ったこの公園、しかも酔っ払いが多いこの時期に一人ぼっちで子供がいることに、ようやく違和感を覚えた。
「お父さんとか、お母さんは?」
「……」
優しく接してあげたつもりが、子供は複雑そうな面持ちで黙り込んでしまった。
「えっと……一人で帰れる?」
「……」
沈黙の中で、例の酔っ払いたちの合唱が遠く、しかしいやに耳について聞こえた。
だんまりを決め込む子供に男は早くも愛想をつかした。何よりも、一刻も早く家に帰ってベッドにダイブしたい気持ちが勝り始めた。自転車に跨ると、子供は顔を上げて何か言いたげな顔を見せたけれど、それはやはり男の視力では捉えられなかった。
じゃね、とペダルに足を掛けた男に、子供は拳を握り締めて、やっとこのことで声を出した。
「……ごめんなさい」
「ん? あぁ、いいよ別に。こちらこそ」
それを自転車にぶつかった事を謝ったのだと解釈した男は、ぷらぷらと手を振ってその場を後にしたが、その『ごめんなさい』にはもっと重大な意味も含まれていることに彼は気付かなかったし、その後子供が自転車が駐輪場に収まるまでこっそりついてきていたのにも、当然気付かなかった。
*
「いつまでうじうじするの? 早く決めなさいよ」
「う……だってさぁ、そういうモモはどうなんだよ、じゃあ」
「私は運命的な出会いって奴を信じてるもの。その時になればあっさりやれる。圭吾(けいご)とは違うんだから」
「はっ、くだらねぇ。もっと真面目にやれってーの、俺たちは世界の未来を背負ってるんだぞ」
「慎重すぎるのもどうかと思うけどね」
うだうだと終わらない話を続けている二人の子供の視線の中で、彼らよりも二つか三つ小さく見える少年が、ぱっと駆け出した。
向かうは、早朝の駅から溢れ出してきた大人たちのうちの、屈強そうな体を持った男である。大柄の彼の腕を掴み、強引に会話に持ち込む愛らしい顔つきの少年は、質の悪いキャッチセールスのように見えなくもない。
「相変わらずね、小夏(こなつ)」
「こーいう面では積極的なんだよなぁ」
「実戦でやっていけるのかどうか、ちょっと微妙よね」
「小夏も海治(かいじ)も、それから由(ゆう)もそうだけど、なんでお前なの? ってやつ多すぎ」
「多すぎっていうか、半分じゃない。直(なお)もちょっと、そう」
「あいつ暗いよなぁ。俺ちょっと苦手」
「でも頭良いよね」
二人がだらだらと会話に時間を費やす中で、小夏と呼ばれた栗色の髪の少年は、ふられてすぐさま次のターゲット、サングラスにスキンヘッドの柄の悪そうな男に向かった。まったく威勢がいい。圭吾と呼ばれた子供が呆れ顔で呟いてのんびりと空を見上げた瞬間、駅前に妙な悲鳴が響いた。
「あぐっ!」
聞き慣れた声と目の前の光景に、二人は思わず立ち上がった。
小夏がスキンヘッドの男に掴み上げられている。二人はしばらく呆然として、男は唾を吐きかけるような距離で罵っていて、小夏は空中で足をばたばたさせている。あんのバカ、と呟いた圭吾が走り出そうとしたとき、視界の端から人間が一人駆けつけて、空間を引き裂くような甲高い怒鳴り声を上げた。
「子供相手に何してるんですか!」
関わるまいと視線を外していた周囲の人間の目が、勇敢な女性の一言によって、一気にチンピラを非難する冷たい視線に変わる。男はうめいて、小夏を放り投げると、一目散に逃げ出してしまった。
またせわしく流れ始めた人波の中で、柔らかそうな髪の毛を二つに縛ったその女性と小夏が向かい合って、何かを話している。
圭吾は離れた場所から彼らを指さして叫んだ。
「なんだあの女!」
「あ、ちょっと……気に入っちゃったみたいよ、小夏」
二人の視線の先には、得意のぶりっ子を披露しながら女に抱きつく小夏の姿があった。
*
なるほどね。ワンルームマンションの一室のドアを開いて、穏やかに晴れ渡る空を背景ににこりと笑っている河合啓志(かわいけいし)を見るなり、鈴鹿賢一(すずかけんいち)はうんざりとそう思った。
首から下げられているのは彼の愛用の一眼レフ、右手左手が同じように吊っている張り裂けそうな袋の中身は、酒、酒、酒の類。まったくどれだけ飲む気なんだと呆れながらも、まあ入れよ、とドアを押し開けた賢一に、啓志はにこやかに首を振った。
「今日、大学休みでしょ」
「ああ」
「花見でもやろうよ。桜公園が丁度いい感じだ」
賢一は思った通りという表情を見せた。一刻も早くアルミ缶のプルタブを押し上げたそうな啓志の様子に、少し待ってろ、と言い残してドアを閉める。とりあえずジャージをジーンズに履き替えて、寒くはないだろうが一応上着を羽織って、ケータイと財布と、それから煙草とライターもポケットに突っ込むと、一日室内で居る気だったためにサボっていた花粉症の薬を飲んで、急いでドアを開けた。その瞬間にバシャリと瞬いた一眼レフに、賢一はむっとしてカメラを構えて笑っている啓志を見た。
「はは。じゃ行こう」
「燈月(ひつき)も誘ってあるんだろ」
「もちろん。敷地を陣取ったら、迎えに行くから」
「誰が陣取るんだ」
「賢一だよ」
むずむずと鼻の奥に違和感を感じて、賢一は嫌な顔のままさっそくくしゃみをした。
『桜公園』は、この辺りでは一番の花見ポイントとされている大きな公園だ。賢一の住むワンルームマンションから電車を一駅行って十分ほど歩いた場所、閑静な住宅街の中にある。
駅を出ると、さっそく桜が舞っていた。啓志が嬉々としてカメラを構えるのを横目に、賢一は片方だけ預かった缶ビールのビニール袋を重そうに揺らしながら、一人ぶらぶらと歩いていく。時が経つにつれて鼻にむずがゆさを覚えて、賢一は何度も鼻をすすりながら、やはり朝のうちに薬を飲んでおくべきだった、と後悔した。
日の暮れかかった公園には、微妙な時間帯だけあって、遊ぶ子供も、散歩をする犬と飼い主も、宴会の準備をするサラリーマンも、ほとんどいなかった。穏やかに流れる風の上を、ひらひらと桜の一片が踊る。公園の中には、ライトアップのための設備も点々と見える。なるほど、夜桜というのも悪くないかもしれないな、まあ河合にとっちゃ花より酒なんだろうが、などと考えながら、公園の入り口の真ん中に三つ並んでいる、なんの侵入を防いでいるのか分からない黄色い物体に落ちかかった花びらをどかして、腰掛けて啓志の到着を待った。
駅から公園までの道のりにどれだけフィルムを費やしているのか知らないが、啓志はなかなか追いついてこなかった。賢一が何度もくしゃみを繰り返す間に、どこからともなく現れた小学校高学年くらいの男女が二人、公園の入り口に座っている二十歳過ぎの男の姿を怪訝そうに見て、そそくさと立ち去っていった。
それからしばらくして、啓志はごめんごめんと笑いながら現れた。それから鼻を赤くしている賢一の姿を見て、大丈夫、と笑いを押し殺しながらパシャリ。もうアルコールが入っているのかと疑いたくなるほど上機嫌な啓志に対して、そうでなくても不機嫌に見られるような顔をしているのが常な賢一は本当に不機嫌な表情を作って、早く行くぞと立ち上がって公園の方に歩き出した。
その時、背中の方で、どす、と音がした。めんどくさそうに振り返った賢一は、途端に血相を変えた。
啓志の形をした黄色の光が、粉塵と化して砕けるように飛び散っていく。その後には、先ほどまでへらりと笑っていた啓志の姿はなく、その代わりに、何やら剣のような物を構えてがたついている少年と、同じく剣のような物を両手で掴んで、訳が分からないといった顔をしている賢一に突進してくる少女が居た。
「は?」
最後にそう言った賢一に少女は、状況を理解させる時間も、その一撃を回避させる隙も与えなかった。
*
夕日のオレンジ色に染め上げられた駅前は、早朝のそれとまではいかないものの、やはり込み合っている。そんな中でぼうと歩いていれば、同じような誰かとぶつかるのは至極当然の話である。
バイト帰りの佐倉杏里(さくらあんり)は、もう何度目かという失態を犯した。相手もまた大学生くらいで、美しい黒髪をアップにして留めている、きりりとした整った顔立ちの女だった。彼女の持っていた書類がばらばらと落ちてしまったので、杏里はごめんなさいごめんなさいと繰り返しながらそれを拾い集めた。
帰路を急ぐ人々に踏まれそうになるのを懸命に制して、ようやく全てを回収し終えたと思って謝りながら相手に手渡したとき、杏里は視界の端で、風に吹かれて路地の中に舞い込んでいく一枚を見た。
「やだ、もうっ」
「あぁ、いいんですよ」
止めようとする女の声を聞かず、杏里は狭い裏道に駆け込んだ。三年間この駅から大学にバイトにと通っているにもかかわらず、初めて通る道だったが、ホームレスでも住んでいそうなほど汚くて雑然としている。何のゴミかも知れない鉄くずの上を乗り越え乗り越え、ようやく最後の一枚を拾い上げたとき、杏里の耳につんざくような女性の悲鳴が飛び込んできた。
びくんと肩が震えた。追いかけてきた黒髪の女と顔を見合わせると、二人はすぐさまその奥の方へと駆け出した。
突き当たりを曲がると、声の主は以外に近い場所にいた。二人は息を飲んだ。目の前で、壁際へと押しやられた女性、彼女もまた大学生くらいで二つくくりの茶髪の女性が、小学生にしか見えない栗毛の少年に、中世の騎士の映画にでも出てきそうな短剣で腹を突き刺されたのだ。
刺された女は、声を上げることも、血を噴き出すこともなく、その剣から溢れ出すように現れた水色の光に飲み込まれ、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。
二人はあ然として、その場に立ち尽くしていた。彼女らに気付かない栗毛の少年は、後から出てきた二人の男女の子供、栗毛の彼よりは幾分大きく見える彼らに、ぽんぽんと頭を叩かれた。よく見れば、未だに淡い光を残している短剣を握る手はぶるぶると震え、膝も時折思い出したようにがくりと揺れる。
「よくやったな、小夏」
「圭吾お兄ちゃん、やったよ、僕……」
「あとは私たちね」
「由の方も、うまく行ってるといいが……家と苗字まで突き止めてるんだよな、確か」
「笠原(かさはら)って言ったかしら」
「アホガキの癖に、うまいことやってやが……」
ふと振り向いた『圭吾お兄ちゃん』と呼ばれた少年は、こちらを見ている二人の女を見て、目をかっと開いて叫んだ。
「見られた!」
えっ! 少女が髪の毛を乱して振り向くのと同時に、杏里と黒髪の女は元来た道へと駆け出した。蹴飛ばした缶が金属音を響き渡らせた。待て! あの少年の怒号が聞こえる。杏里が必死の思いで鉄くずの山を飛び越えたとき、あっという声と共に、何かが崩れ落ちるような音が聞こえた。振り向くと、転んだ黒髪の女の上を少年が飛び越え、その後に続いた少女が、どこからか出した短剣を女に振り下ろそうとするところだった。
どうすることもできなかった。つかまったら殺される! 杏里は駅前の人波の中へと飛び込んで、無我夢中で雑踏を走り抜けた。向かい側の別の路地に飛び込むと、薄暗い道の脇、古錆びたドラム缶の影の中へ身を隠して、杏里はすぐさまケータイを取り出した。震える指で新規メール作成画面に移り、『笠原燈月』という名前で登録されたアドレスを呼び出した。
それは、先ほどの少女が口走ったのと同じ苗字。確信はない。しかも、もう一年近くもメールのやり取りをしてないアドレスだった。でもそんなことを言っている場合ではない。もしも、もしも彼の身に何かあったら……!
「見つけたッ!」
目の前に短剣を振りかざす少年が飛び出してきたとき、杏里はただすくみ上がって、『送信』ボタンを押すことしか叶わなかった。
少年の目の前で今、一人の人間が、この星から消え去った。『送信しました』というメッセージを残した携帯電話だけが、かつんとその場に転がった。
*
「おー、まじで。もうおじさんは大丈夫なんだ」
ベッドの上にごろごろと転がりながら携帯電話を耳にやっていた昨夜の自転車の男は、相手の言葉によたよたと起き上がった。
「いつ来るの?」
言いながら狭い部屋のこっちからあっちへと移動し、小さなテレビの横に置いてあるカレンダーを手に取って、相手が口にする日にちを赤ペンでくるくると囲い始める。
「うん、じゃ、また俺んちに泊まれよ。……ん、はは。ちゃんと食うもんくらい用意する」
しばらくの談笑の後、ケータイを閉じて机の上に置いた男は、もう一度ごろりと横になった。
また高校んときのメンバーで集まるかな、と一人ごちな彼は、彼らに連絡でもしておくかと思い立って、ベッドに寝転んだままもう一度ケータイに手を伸ばした。掴んだ瞬間、音も立てずに背中を光らせ始めたそれを開くと、『受信メール一件』の文字。『佐倉さん』、送り主のあまりに懐かしい響きに、男は思わず息をついた。
だがそのメールを開いてみて、男は怪訝な顔を見せる。
「空メール……?」
ふいに、ガチャ、とドアノブが回転する音が聞こえて、男はびくりと起き上がった。この狭い部屋に、男以外に自由に出入りできる者はいないはずである。しばらくガチャガチャとノブを回してみて、鍵がかかっていることを確認したらしいドアの向こうの相手は、コンコンいう控えめなノック音に変えた。学生の多いボロアパートではあるが、チャイムぐらいはちゃんとついている。男は首を傾げながらドアまで行って、覗き窓に顔を近づけた。そこには覚えのある顔があった。
ドアを開けると、昨日自転車ではねた少年が、おそるおそるといった様子でこちらを見上げているではないか。
「……えっと」
なんで? 男の問いは、その喉から発せられることはなかった。男は次の瞬間、自分の腹に突き刺さった変なものを見て、声を出すこともできなかったのだから。
*
――昔の人は言った
――運命は変わりはしない、と
「でも……それでも、俺たちは……」
――幾らの命を費やしても
――滅び行く星は止められない、と
「どんな犠牲を払ったって……」
――誰もが未来を諦めた、古代の世界で
「救ってやる……」
――二つの月が輝くとき
「運命を、変えるんだ……!」
――その存亡を賭けて、立ち上がる者たちがいた。
****説明が楽なので続きもちょっとだけ上げます
――古代危機。
神によって生み落とされた悪魔が、世界を喰いつくさんとしたことがあった。
2・青い月
1
ふと目を開けると、柔らかな緑とちらちら揺れる眩しい木漏れ日の中、そこには見知った男の背中がある。ぼんやりとした意識の中で自転車の男――笠原燈月は目を擦り、とりあえず上半身を起こして彼に声を掛けた。
「……鈴鹿?」
寝起きらしいぽやんとした声に振り向いたのは、間違いなく燈月の友人で、今だって例に漏れず不満げな顔をしている男――鈴鹿賢一である。賢一は面白くなさそうに燈月を見下ろして、そのままの表情で前に向き直ってしまった。シカトかよ、と呟く横で聞こえた情けない笑い声に振り向くと、そこにもまた知った顔がある。
「あれ、河合? なんで?」
「こっちが聞きたいよ」
河合啓志は首を傾げて苦笑した。その顔の向こうに見える景色、その異変にようやく気付いて、燈月は目を丸くした。
そこには、大自然の神秘がどうとかいう番組で取り上げられていそうな、緑の苔と蔦に覆われた大木が立っていた。それも一本や二本ではない。どの方向を向いても、天高く突き抜ける雄大な樹木が点在し、辺りは爽やかな空気が満たされ、涼やかな鳥のさえずりが絶えずこだましている。燈月は「はー」と適当な溜息をついた。感動したんだか、呆れたんだかは彼自身にもよく分からない。ともかく自分たちは今、どことも知らない大森林の真ん中らしき場所、柔らかく湿った土の上にへたり込んでいるのである。
視線を下ろすと、向こう側には燈月と同じくらいの年齢の女性が三人いて、こちらを見ながら立ち尽くしている。その中の一人にまた見覚えがあった。
「佐倉さんだ」
声を掛けられたことにはっとして、おどおどと会釈を返した女――佐倉杏里を見て、啓志は誰だよと燈月に尋ねた。それを無視した燈月は最後に賢一の向こうへと顔を向けて、そこに最後の知り合いを発見するのである。
「あーっ!」
今日一番驚いた顔で燈月が指さしたのは、怖い顔の賢一と怖い顔で対峙する少年、の隣で短剣を構え、その様子を見上げている少年――燈月と自転車事故を起こして、翌晩家まで押しかけてきた子供だった。
その時になって燈月は、そこの友人二人と花見の約束を取り付けていた晩のこと、杏里から空メールが届いて、直後にやってきた子供に『変なもの』を腹につき立てられたことを、ようやく思い出したのだった。
「だから、一体どういうことなんだって聞いてるんだ」
「……」
「どうして答えられない」
低い声で尋ねる賢一に、彼と向かい合っている子供たちの真ん中に立つ圭吾は睨みつけるような視線で応戦する。順に意識を取り戻した大人たちに剣を向けて威嚇し、それに全くと言っていいほど怯えることをしなかった賢一が立ち上がって詰め寄ってからというもの、圭吾は延々と黙り続けていた。痺れを切らした賢一がもう一歩前進すると、圭吾は柄をぐっと握り直した。
「動くな!」
「どうして」
「黙れッ」
「圭吾、こんなことしててもしょうがないでしょ。まさか連れてきさえすればいいとでも思ってたの?」
最初に剣を下ろしたのは、圭吾の左脇に構えていたそばかすのある少女――桃花だった。彼女はその短剣、持ち手と刃の境目に桃色に輝く宝石が埋め込まれたそれを、腰に引っ掛けた鞘の中に戻して、あらためて賢一に向き直った。女の子だが、しっかり者で気の強そうな雰囲気がある。啓志は彼女を見、結構かわいいねと呟いて、燈月の冷ややかな視線を浴びた。
「じゃ、じゃあ……だったらどうしろって言うんだよ」
「ほーら、やっぱり。考えナシ」
「うっさい!」
「ごめんなさい。彼これでもリーダーなんですけど、ちょっと短気なところがあって」
「な、なんだよ!」
「そんなことはどうでもいい」
歩み寄ろうとした桃花の言葉を一蹴して、賢一は彼らに冷たい視線を向けた。
「俺たちをどうするつもりなんだ」
「どうする……って言われても、私たちは」
「世界を救うんだ!」
大真面目な顔で叫んだ圭吾に、賢一はますます不快感を露わにした。対照的に笑い声を上げたのは、呆然としている杏里の横、体育座りで彼らを眺めていた、二つくくりの女だった。
「面白そうですね。何のゲームですか?」
「ゲームなんかじゃない! 俺たちとお前たちに、この世界の運命がかかって――」
桃花に抑えられながら喚いていた圭吾は、目の前の男がくるりと背中を向けたのを見て言葉を止めた。
「――聞けよッ!」
「あ、あの、どこに?」
「お前たちといても埒が明かない。ここで飢え死にするよりましだ」
ぶつぶつといいながら横を通り過ぎていった賢一に、燈月と啓志はやれやれといった様子で腰を上げた。それを見て、三人の女性陣も次々に立ち上がる。子供たちは不安そうな面持ちで圭吾の見た。勇敢な少年の柄を握る両手は、僅かに震えている。
「……帰る場所なんて、ないぜ」
立ち止まり、大袈裟に溜息をついた賢一は、やはりめんどくさそうな顔で振り向いた。視線の先には、子供らしく真ん丸い瞳に精一杯威厳を持たせようとする、子ライオンのような少年がいた。
「何が言いたいんだ」
「ここはお前達の知っている世界じゃない」
「世界?」
「――ブルームーン!」
甲高い声は、水色の宝石が埋め込まれた短剣を握りしめる、二つくくりの女性に手を加えた子供――小夏のものだった。
「それがこの世界の名前!」
「もう一度世界の破滅を食い止めるために、あなた方の力が必要なんです」
紫色の宝石の短剣を鞘に戻し、総じて怪訝そうな目を向ける大人たちへと一歩歩み出たのは、桜公園の入り口で賢一を襲った少女だ。
訪れた沈黙の中、燈月が楽しそうに肩をすくませ、二つくくりの女が目をしばたかせる間に、一陣の風が駆け抜けて木の葉をざわざわと揺らした。
澄んだ大気の青の中を、淡い桃色の花びらが、ひらりひらりと横切っていく。
目を奪われた。そこがその、遥か彼方、おとぎの中の世界なのだと、ふとした実感が込み上げた。
少年は目を細める。
――綺麗だ。
1・英雄
夜桜の下で、自転車の男が子供をはねた。
『桜公園』という安直な名前で呼ばれるその公園の、大勢の花見客が宴会を楽しむ喧騒の中で、その小さな事故はさして気に留められなかった。頭にネクタイを巻いた中年男が何人か酔いつぶれて寝ている間に、また一人、子供が倒れこんだだけのことである。
自転車の若い男は、あぁまたしくじったと思った。去年のこんな夜にも、ヨレヨレといった様子で歩いていた男をはねてしまったことがあったのだ。だから公園のライトアップが始まってからは、バイト先からアパートへの近道であるこの公園は、でも使うまいと決めていたのに。今日に限ってなんだか体調も悪いし、偉い人に小言を言われるしで、早く帰りたいという気持ちが先走ってしまったばっかりに。
ところが今年の場合は、去年のように別の男が赤ら顔を更に真っ赤にして掴みかかってくる、なんてことは起こらなかった。所狭しとまではいかないものの、至るところに陣取っているビニールシートの間からふらふらと現れた十いくつの子供は、それを避けようと慌てて進路を変えた前輪に吸い付くように、そしてどしんとぶつかって倒れた。それなのに、両脇のシートのサラリーマンたちはちらりちらりとこちらを見、何事もなかったような顔で、再び酒を煽り始めたのである。運転手の男はひとまず自転車を止めて、ごめん、大丈夫、と声をかけた。すると子供はこちらを見ると、むくりと起き上がって、いそいそと公園の出口の方へと向かっていくのだ。それも小走りで。
その様子に運転手は、ケガはなかろうと思いながらも、控えめに自転車を押して子供を追いかけ始めた。
公園のところかしこで桜がひらりひらりと舞い落ち、二人の肩に頭に降りかかった。いくつかの陽気な歌声は複雑に絡み合って、どこかの現代音楽のわめきのように響いた。
出口まで差し掛かり、湿った地面を蹴る音が聞こえるようになって、男がそろそろ自転車に乗ってもいいだろうと思いはじめたとき、ふと子供は立ち止まって振り向いた。暗闇でも浮き立つ、色白で整った綺麗な顔をしている。その目が男を捕らえたとき、若干嬉しそうな表情を滲ませたのに、疲労によって視界さえ淀んできた男は気付かなかった。
「えっと、ケガなかった?」
今更ながらの質問に、子供は少し戸惑った後、わざわざ自分の四肢をくるくる見回してから返事をした。
「……はい」
頼りなくか細い声だったが、男の子のそれである。ふうと息をついた男は、夜八時を回ったこの公園、しかも酔っ払いが多いこの時期に一人ぼっちで子供がいることに、ようやく違和感を覚えた。
「お父さんとか、お母さんは?」
「……」
優しく接してあげたつもりが、子供は複雑そうな面持ちで黙り込んでしまった。
「えっと……一人で帰れる?」
「……」
沈黙の中で、例の酔っ払いたちの合唱が遠く、しかしいやに耳について聞こえた。
だんまりを決め込む子供に男は早くも愛想をつかした。何よりも、一刻も早く家に帰ってベッドにダイブしたい気持ちが勝り始めた。自転車に跨ると、子供は顔を上げて何か言いたげな顔を見せたけれど、それはやはり男の視力では捉えられなかった。
じゃね、とペダルに足を掛けた男に、子供は拳を握り締めて、やっとこのことで声を出した。
「……ごめんなさい」
「ん? あぁ、いいよ別に。こちらこそ」
それを自転車にぶつかった事を謝ったのだと解釈した男は、ぷらぷらと手を振ってその場を後にしたが、その『ごめんなさい』にはもっと重大な意味も含まれていることに彼は気付かなかったし、その後子供が自転車が駐輪場に収まるまでこっそりついてきていたのにも、当然気付かなかった。
*
「いつまでうじうじするの? 早く決めなさいよ」
「う……だってさぁ、そういうモモはどうなんだよ、じゃあ」
「私は運命的な出会いって奴を信じてるもの。その時になればあっさりやれる。圭吾(けいご)とは違うんだから」
「はっ、くだらねぇ。もっと真面目にやれってーの、俺たちは世界の未来を背負ってるんだぞ」
「慎重すぎるのもどうかと思うけどね」
うだうだと終わらない話を続けている二人の子供の視線の中で、彼らよりも二つか三つ小さく見える少年が、ぱっと駆け出した。
向かうは、早朝の駅から溢れ出してきた大人たちのうちの、屈強そうな体を持った男である。大柄の彼の腕を掴み、強引に会話に持ち込む愛らしい顔つきの少年は、質の悪いキャッチセールスのように見えなくもない。
「相変わらずね、小夏(こなつ)」
「こーいう面では積極的なんだよなぁ」
「実戦でやっていけるのかどうか、ちょっと微妙よね」
「小夏も海治(かいじ)も、それから由(ゆう)もそうだけど、なんでお前なの? ってやつ多すぎ」
「多すぎっていうか、半分じゃない。直(なお)もちょっと、そう」
「あいつ暗いよなぁ。俺ちょっと苦手」
「でも頭良いよね」
二人がだらだらと会話に時間を費やす中で、小夏と呼ばれた栗色の髪の少年は、ふられてすぐさま次のターゲット、サングラスにスキンヘッドの柄の悪そうな男に向かった。まったく威勢がいい。圭吾と呼ばれた子供が呆れ顔で呟いてのんびりと空を見上げた瞬間、駅前に妙な悲鳴が響いた。
「あぐっ!」
聞き慣れた声と目の前の光景に、二人は思わず立ち上がった。
小夏がスキンヘッドの男に掴み上げられている。二人はしばらく呆然として、男は唾を吐きかけるような距離で罵っていて、小夏は空中で足をばたばたさせている。あんのバカ、と呟いた圭吾が走り出そうとしたとき、視界の端から人間が一人駆けつけて、空間を引き裂くような甲高い怒鳴り声を上げた。
「子供相手に何してるんですか!」
関わるまいと視線を外していた周囲の人間の目が、勇敢な女性の一言によって、一気にチンピラを非難する冷たい視線に変わる。男はうめいて、小夏を放り投げると、一目散に逃げ出してしまった。
またせわしく流れ始めた人波の中で、柔らかそうな髪の毛を二つに縛ったその女性と小夏が向かい合って、何かを話している。
圭吾は離れた場所から彼らを指さして叫んだ。
「なんだあの女!」
「あ、ちょっと……気に入っちゃったみたいよ、小夏」
二人の視線の先には、得意のぶりっ子を披露しながら女に抱きつく小夏の姿があった。
*
なるほどね。ワンルームマンションの一室のドアを開いて、穏やかに晴れ渡る空を背景ににこりと笑っている河合啓志(かわいけいし)を見るなり、鈴鹿賢一(すずかけんいち)はうんざりとそう思った。
首から下げられているのは彼の愛用の一眼レフ、右手左手が同じように吊っている張り裂けそうな袋の中身は、酒、酒、酒の類。まったくどれだけ飲む気なんだと呆れながらも、まあ入れよ、とドアを押し開けた賢一に、啓志はにこやかに首を振った。
「今日、大学休みでしょ」
「ああ」
「花見でもやろうよ。桜公園が丁度いい感じだ」
賢一は思った通りという表情を見せた。一刻も早くアルミ缶のプルタブを押し上げたそうな啓志の様子に、少し待ってろ、と言い残してドアを閉める。とりあえずジャージをジーンズに履き替えて、寒くはないだろうが一応上着を羽織って、ケータイと財布と、それから煙草とライターもポケットに突っ込むと、一日室内で居る気だったためにサボっていた花粉症の薬を飲んで、急いでドアを開けた。その瞬間にバシャリと瞬いた一眼レフに、賢一はむっとしてカメラを構えて笑っている啓志を見た。
「はは。じゃ行こう」
「燈月(ひつき)も誘ってあるんだろ」
「もちろん。敷地を陣取ったら、迎えに行くから」
「誰が陣取るんだ」
「賢一だよ」
むずむずと鼻の奥に違和感を感じて、賢一は嫌な顔のままさっそくくしゃみをした。
『桜公園』は、この辺りでは一番の花見ポイントとされている大きな公園だ。賢一の住むワンルームマンションから電車を一駅行って十分ほど歩いた場所、閑静な住宅街の中にある。
駅を出ると、さっそく桜が舞っていた。啓志が嬉々としてカメラを構えるのを横目に、賢一は片方だけ預かった缶ビールのビニール袋を重そうに揺らしながら、一人ぶらぶらと歩いていく。時が経つにつれて鼻にむずがゆさを覚えて、賢一は何度も鼻をすすりながら、やはり朝のうちに薬を飲んでおくべきだった、と後悔した。
日の暮れかかった公園には、微妙な時間帯だけあって、遊ぶ子供も、散歩をする犬と飼い主も、宴会の準備をするサラリーマンも、ほとんどいなかった。穏やかに流れる風の上を、ひらひらと桜の一片が踊る。公園の中には、ライトアップのための設備も点々と見える。なるほど、夜桜というのも悪くないかもしれないな、まあ河合にとっちゃ花より酒なんだろうが、などと考えながら、公園の入り口の真ん中に三つ並んでいる、なんの侵入を防いでいるのか分からない黄色い物体に落ちかかった花びらをどかして、腰掛けて啓志の到着を待った。
駅から公園までの道のりにどれだけフィルムを費やしているのか知らないが、啓志はなかなか追いついてこなかった。賢一が何度もくしゃみを繰り返す間に、どこからともなく現れた小学校高学年くらいの男女が二人、公園の入り口に座っている二十歳過ぎの男の姿を怪訝そうに見て、そそくさと立ち去っていった。
それからしばらくして、啓志はごめんごめんと笑いながら現れた。それから鼻を赤くしている賢一の姿を見て、大丈夫、と笑いを押し殺しながらパシャリ。もうアルコールが入っているのかと疑いたくなるほど上機嫌な啓志に対して、そうでなくても不機嫌に見られるような顔をしているのが常な賢一は本当に不機嫌な表情を作って、早く行くぞと立ち上がって公園の方に歩き出した。
その時、背中の方で、どす、と音がした。めんどくさそうに振り返った賢一は、途端に血相を変えた。
啓志の形をした黄色の光が、粉塵と化して砕けるように飛び散っていく。その後には、先ほどまでへらりと笑っていた啓志の姿はなく、その代わりに、何やら剣のような物を構えてがたついている少年と、同じく剣のような物を両手で掴んで、訳が分からないといった顔をしている賢一に突進してくる少女が居た。
「は?」
最後にそう言った賢一に少女は、状況を理解させる時間も、その一撃を回避させる隙も与えなかった。
*
夕日のオレンジ色に染め上げられた駅前は、早朝のそれとまではいかないものの、やはり込み合っている。そんな中でぼうと歩いていれば、同じような誰かとぶつかるのは至極当然の話である。
バイト帰りの佐倉杏里(さくらあんり)は、もう何度目かという失態を犯した。相手もまた大学生くらいで、美しい黒髪をアップにして留めている、きりりとした整った顔立ちの女だった。彼女の持っていた書類がばらばらと落ちてしまったので、杏里はごめんなさいごめんなさいと繰り返しながらそれを拾い集めた。
帰路を急ぐ人々に踏まれそうになるのを懸命に制して、ようやく全てを回収し終えたと思って謝りながら相手に手渡したとき、杏里は視界の端で、風に吹かれて路地の中に舞い込んでいく一枚を見た。
「やだ、もうっ」
「あぁ、いいんですよ」
止めようとする女の声を聞かず、杏里は狭い裏道に駆け込んだ。三年間この駅から大学にバイトにと通っているにもかかわらず、初めて通る道だったが、ホームレスでも住んでいそうなほど汚くて雑然としている。何のゴミかも知れない鉄くずの上を乗り越え乗り越え、ようやく最後の一枚を拾い上げたとき、杏里の耳につんざくような女性の悲鳴が飛び込んできた。
びくんと肩が震えた。追いかけてきた黒髪の女と顔を見合わせると、二人はすぐさまその奥の方へと駆け出した。
突き当たりを曲がると、声の主は以外に近い場所にいた。二人は息を飲んだ。目の前で、壁際へと押しやられた女性、彼女もまた大学生くらいで二つくくりの茶髪の女性が、小学生にしか見えない栗毛の少年に、中世の騎士の映画にでも出てきそうな短剣で腹を突き刺されたのだ。
刺された女は、声を上げることも、血を噴き出すこともなく、その剣から溢れ出すように現れた水色の光に飲み込まれ、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。
二人はあ然として、その場に立ち尽くしていた。彼女らに気付かない栗毛の少年は、後から出てきた二人の男女の子供、栗毛の彼よりは幾分大きく見える彼らに、ぽんぽんと頭を叩かれた。よく見れば、未だに淡い光を残している短剣を握る手はぶるぶると震え、膝も時折思い出したようにがくりと揺れる。
「よくやったな、小夏」
「圭吾お兄ちゃん、やったよ、僕……」
「あとは私たちね」
「由の方も、うまく行ってるといいが……家と苗字まで突き止めてるんだよな、確か」
「笠原(かさはら)って言ったかしら」
「アホガキの癖に、うまいことやってやが……」
ふと振り向いた『圭吾お兄ちゃん』と呼ばれた少年は、こちらを見ている二人の女を見て、目をかっと開いて叫んだ。
「見られた!」
えっ! 少女が髪の毛を乱して振り向くのと同時に、杏里と黒髪の女は元来た道へと駆け出した。蹴飛ばした缶が金属音を響き渡らせた。待て! あの少年の怒号が聞こえる。杏里が必死の思いで鉄くずの山を飛び越えたとき、あっという声と共に、何かが崩れ落ちるような音が聞こえた。振り向くと、転んだ黒髪の女の上を少年が飛び越え、その後に続いた少女が、どこからか出した短剣を女に振り下ろそうとするところだった。
どうすることもできなかった。つかまったら殺される! 杏里は駅前の人波の中へと飛び込んで、無我夢中で雑踏を走り抜けた。向かい側の別の路地に飛び込むと、薄暗い道の脇、古錆びたドラム缶の影の中へ身を隠して、杏里はすぐさまケータイを取り出した。震える指で新規メール作成画面に移り、『笠原燈月』という名前で登録されたアドレスを呼び出した。
それは、先ほどの少女が口走ったのと同じ苗字。確信はない。しかも、もう一年近くもメールのやり取りをしてないアドレスだった。でもそんなことを言っている場合ではない。もしも、もしも彼の身に何かあったら……!
「見つけたッ!」
目の前に短剣を振りかざす少年が飛び出してきたとき、杏里はただすくみ上がって、『送信』ボタンを押すことしか叶わなかった。
少年の目の前で今、一人の人間が、この星から消え去った。『送信しました』というメッセージを残した携帯電話だけが、かつんとその場に転がった。
*
「おー、まじで。もうおじさんは大丈夫なんだ」
ベッドの上にごろごろと転がりながら携帯電話を耳にやっていた昨夜の自転車の男は、相手の言葉によたよたと起き上がった。
「いつ来るの?」
言いながら狭い部屋のこっちからあっちへと移動し、小さなテレビの横に置いてあるカレンダーを手に取って、相手が口にする日にちを赤ペンでくるくると囲い始める。
「うん、じゃ、また俺んちに泊まれよ。……ん、はは。ちゃんと食うもんくらい用意する」
しばらくの談笑の後、ケータイを閉じて机の上に置いた男は、もう一度ごろりと横になった。
また高校んときのメンバーで集まるかな、と一人ごちな彼は、彼らに連絡でもしておくかと思い立って、ベッドに寝転んだままもう一度ケータイに手を伸ばした。掴んだ瞬間、音も立てずに背中を光らせ始めたそれを開くと、『受信メール一件』の文字。『佐倉さん』、送り主のあまりに懐かしい響きに、男は思わず息をついた。
だがそのメールを開いてみて、男は怪訝な顔を見せる。
「空メール……?」
ふいに、ガチャ、とドアノブが回転する音が聞こえて、男はびくりと起き上がった。この狭い部屋に、男以外に自由に出入りできる者はいないはずである。しばらくガチャガチャとノブを回してみて、鍵がかかっていることを確認したらしいドアの向こうの相手は、コンコンいう控えめなノック音に変えた。学生の多いボロアパートではあるが、チャイムぐらいはちゃんとついている。男は首を傾げながらドアまで行って、覗き窓に顔を近づけた。そこには覚えのある顔があった。
ドアを開けると、昨日自転車ではねた少年が、おそるおそるといった様子でこちらを見上げているではないか。
「……えっと」
なんで? 男の問いは、その喉から発せられることはなかった。男は次の瞬間、自分の腹に突き刺さった変なものを見て、声を出すこともできなかったのだから。
*
――昔の人は言った
――運命は変わりはしない、と
「でも……それでも、俺たちは……」
――幾らの命を費やしても
――滅び行く星は止められない、と
「どんな犠牲を払ったって……」
――誰もが未来を諦めた、古代の世界で
「救ってやる……」
――二つの月が輝くとき
「運命を、変えるんだ……!」
――その存亡を賭けて、立ち上がる者たちがいた。
****説明が楽なので続きもちょっとだけ上げます
――古代危機。
神によって生み落とされた悪魔が、世界を喰いつくさんとしたことがあった。
2・青い月
1
ふと目を開けると、柔らかな緑とちらちら揺れる眩しい木漏れ日の中、そこには見知った男の背中がある。ぼんやりとした意識の中で自転車の男――笠原燈月は目を擦り、とりあえず上半身を起こして彼に声を掛けた。
「……鈴鹿?」
寝起きらしいぽやんとした声に振り向いたのは、間違いなく燈月の友人で、今だって例に漏れず不満げな顔をしている男――鈴鹿賢一である。賢一は面白くなさそうに燈月を見下ろして、そのままの表情で前に向き直ってしまった。シカトかよ、と呟く横で聞こえた情けない笑い声に振り向くと、そこにもまた知った顔がある。
「あれ、河合? なんで?」
「こっちが聞きたいよ」
河合啓志は首を傾げて苦笑した。その顔の向こうに見える景色、その異変にようやく気付いて、燈月は目を丸くした。
そこには、大自然の神秘がどうとかいう番組で取り上げられていそうな、緑の苔と蔦に覆われた大木が立っていた。それも一本や二本ではない。どの方向を向いても、天高く突き抜ける雄大な樹木が点在し、辺りは爽やかな空気が満たされ、涼やかな鳥のさえずりが絶えずこだましている。燈月は「はー」と適当な溜息をついた。感動したんだか、呆れたんだかは彼自身にもよく分からない。ともかく自分たちは今、どことも知らない大森林の真ん中らしき場所、柔らかく湿った土の上にへたり込んでいるのである。
視線を下ろすと、向こう側には燈月と同じくらいの年齢の女性が三人いて、こちらを見ながら立ち尽くしている。その中の一人にまた見覚えがあった。
「佐倉さんだ」
声を掛けられたことにはっとして、おどおどと会釈を返した女――佐倉杏里を見て、啓志は誰だよと燈月に尋ねた。それを無視した燈月は最後に賢一の向こうへと顔を向けて、そこに最後の知り合いを発見するのである。
「あーっ!」
今日一番驚いた顔で燈月が指さしたのは、怖い顔の賢一と怖い顔で対峙する少年、の隣で短剣を構え、その様子を見上げている少年――燈月と自転車事故を起こして、翌晩家まで押しかけてきた子供だった。
その時になって燈月は、そこの友人二人と花見の約束を取り付けていた晩のこと、杏里から空メールが届いて、直後にやってきた子供に『変なもの』を腹につき立てられたことを、ようやく思い出したのだった。
「だから、一体どういうことなんだって聞いてるんだ」
「……」
「どうして答えられない」
低い声で尋ねる賢一に、彼と向かい合っている子供たちの真ん中に立つ圭吾は睨みつけるような視線で応戦する。順に意識を取り戻した大人たちに剣を向けて威嚇し、それに全くと言っていいほど怯えることをしなかった賢一が立ち上がって詰め寄ってからというもの、圭吾は延々と黙り続けていた。痺れを切らした賢一がもう一歩前進すると、圭吾は柄をぐっと握り直した。
「動くな!」
「どうして」
「黙れッ」
「圭吾、こんなことしててもしょうがないでしょ。まさか連れてきさえすればいいとでも思ってたの?」
最初に剣を下ろしたのは、圭吾の左脇に構えていたそばかすのある少女――桃花だった。彼女はその短剣、持ち手と刃の境目に桃色に輝く宝石が埋め込まれたそれを、腰に引っ掛けた鞘の中に戻して、あらためて賢一に向き直った。女の子だが、しっかり者で気の強そうな雰囲気がある。啓志は彼女を見、結構かわいいねと呟いて、燈月の冷ややかな視線を浴びた。
「じゃ、じゃあ……だったらどうしろって言うんだよ」
「ほーら、やっぱり。考えナシ」
「うっさい!」
「ごめんなさい。彼これでもリーダーなんですけど、ちょっと短気なところがあって」
「な、なんだよ!」
「そんなことはどうでもいい」
歩み寄ろうとした桃花の言葉を一蹴して、賢一は彼らに冷たい視線を向けた。
「俺たちをどうするつもりなんだ」
「どうする……って言われても、私たちは」
「世界を救うんだ!」
大真面目な顔で叫んだ圭吾に、賢一はますます不快感を露わにした。対照的に笑い声を上げたのは、呆然としている杏里の横、体育座りで彼らを眺めていた、二つくくりの女だった。
「面白そうですね。何のゲームですか?」
「ゲームなんかじゃない! 俺たちとお前たちに、この世界の運命がかかって――」
桃花に抑えられながら喚いていた圭吾は、目の前の男がくるりと背中を向けたのを見て言葉を止めた。
「――聞けよッ!」
「あ、あの、どこに?」
「お前たちといても埒が明かない。ここで飢え死にするよりましだ」
ぶつぶつといいながら横を通り過ぎていった賢一に、燈月と啓志はやれやれといった様子で腰を上げた。それを見て、三人の女性陣も次々に立ち上がる。子供たちは不安そうな面持ちで圭吾の見た。勇敢な少年の柄を握る両手は、僅かに震えている。
「……帰る場所なんて、ないぜ」
立ち止まり、大袈裟に溜息をついた賢一は、やはりめんどくさそうな顔で振り向いた。視線の先には、子供らしく真ん丸い瞳に精一杯威厳を持たせようとする、子ライオンのような少年がいた。
「何が言いたいんだ」
「ここはお前達の知っている世界じゃない」
「世界?」
「――ブルームーン!」
甲高い声は、水色の宝石が埋め込まれた短剣を握りしめる、二つくくりの女性に手を加えた子供――小夏のものだった。
「それがこの世界の名前!」
「もう一度世界の破滅を食い止めるために、あなた方の力が必要なんです」
紫色の宝石の短剣を鞘に戻し、総じて怪訝そうな目を向ける大人たちへと一歩歩み出たのは、桜公園の入り口で賢一を襲った少女だ。
訪れた沈黙の中、燈月が楽しそうに肩をすくませ、二つくくりの女が目をしばたかせる間に、一陣の風が駆け抜けて木の葉をざわざわと揺らした。
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