Always Look on the Bright Side of Life
ちょっと前(9月12日だそうだ)にこんなもん書いていたのを思い出しました。
↓追記短文ポケモン1500字
↓追記短文ポケモン1500字
めにみえる あいての かおや うごきの モノマネを することで どんな きもちか わかろうとする。
これはもう、もう、怒った。怒った怒った、と言いながら、マッギョはひたひた詰め寄った。狭い薄暗い店内に、ひらひらひらと舞い降りるは、白い埃、そして埃。商品棚の上に積まれた段ボールのその上で、招かざる小さな来訪者は、ケタケタケタと笑っている。
「おいちゃん、マッギョのおいちゃん」
「降りてこんかい、え。電撃出してもええんかいな」
「電撃! 電撃!」
我慢ならん。びりっと電気を発しながら、マッギョはニタァと顔を歪めた。電気を作ろうとするとき、ニタァと笑ってしまうのは、マッギョの生来の癖なのだ。すると、小さいのもニタァと笑う。あれは顔真似を好むのだ。
「やめんかいその顔」
そのニタァを見ていると、力が抜けて、うまく電気が放てない。あれはちゃっかり心得ていた。
ぴゃははと笑いながらそれが段ボールを渡り歩くと、更に埃が舞い散った。そしてぐらりと傾く紙箱。棚の最上部から崩れ落ちてきた箱の中身のリールの山が、次々マッギョの頭を殴る。そして殴る。店は釣り具屋であって、マッギョは看板魚であった。店主の老爺が居眠りをする時、ドアマットのようになってこういった招かざる者を警戒するのは、マッギョの生来の務めなのである。
怒り心頭で放ったどろばくだんはしかし、ちびの飛び避けた先に天井から下がっていた古いテレビを打ち抜いた。ぴゃーんと音を立てて液晶が砕けた。だどもマッギョのせいではない、全面的に悪いのはあれだ。悪いのはあれと、随分前から決まっている。こうして小童とまみえるのは、そうして被害を被るのは、つまり初めてのことではない。実に二十と七回目である。
そのマネネが初めてドアマットのマッギョ、つまりドアマッギョを踏んだのは、あれはもう忘れもしない、二十と七日前の事。開け放たれた扉の前で、右を窺い、左を窺い、したり顔で舌をぺろっと覗かせながら踏み込んできたマネネのことを、マッギョはもう生涯忘れることはないであろう。ドアマッギョを踏み、途端びりりと痺れて、おおうっふっと叫びながら逃げて行ったいたずらマネネは、次の日にはもう、ドアマッギョの上をすいっと飛び越えて釣り具屋への侵入を成功させた。したたかな小童なのである。
リールの箱とリールの箱とリールの箱を崩壊させて、どろばくだんの二度目の襲撃をかいくぐったちびっこはミャハハと笑いながらアイスショーケースの戸を開け中に飛び込んだ。その秘境から悲鳴が聞こえた。ジタバタもがきで開いた隙間から蹴り散らされてくる釣り餌のワームやエビや貝を、ここぞとばかりにマッギョは頬張る。すっ飛んできたサビキ餌袋はわざわざ開封しこれもまた頬張る。事故である。大事故である。ここまで騒がれておきながら、未だにカウンターで船を漕いでいる老爺の事は、誰もが敬わざるを得まい。
冷気の漂うショーケースから、そろそろと小僧は顔を覗かす。懺悔のニタァである。目は半月型である。
「反省してます」
「うむ」
「もう、びりびりしない?」
「うむ」
「どろんこも?」
「うむ」
「……アンコール、アンコール」
囁きながらリズミカルに手を叩かれると、怒りのままにマッギョはどろばくだんを放射した。
一弾目を踊るように華麗に避け、二弾目がクリーンヒットしてマネネはぶっ飛び商品棚に激突した。ばらばら落ちるは釣り針、釣り針、また釣り針。篠突く釣り針をひらりふわりと避けながら飛び着地したその先は、居眠る老爺の禿頭の上である。ヨガのポーズ! と高らかに宣誓しながらそこでポージングを決めたマネネへ、マッギョは惜しみなくどろばくだんを噴射した。危うく直撃は免れたが、ぴしぴしと顔に泥喰らいながらも老爺がまだまだ目覚めないのは、最早神業としか言いようがない、無論マッギョの。
しかしまあ、二十七回目の抗争も間もなくフィナーレの頃合いか。展示の釣竿を振りかざし凄ぶるテクニシャンぶりで老爺の丸眼鏡を釣り上げたところで、ぴくっとその瞼が痙攣した。がっと起き上がり老爺は俊敏に魚網を掴むと喚きながらそれを振るった。網の一閃に、マネネは帽子の先を取られながらも寸でのところで下に滑る。滑ってきたところをマッギョの体が引っ掛けた。おっとっとと言いながら反動で体が持ち上がると、宿敵はそのまま店外へと転がり出ていく。
「おいちゃん、それでは、また明日ぁ」
「もうこんでええわい」
「えー、でもさおいちゃん、嬉しがってるからなぁ」
何を根拠に、と言ったところで、マネネはくるりと振り向いた。
「だって、おいちゃん、こんな顔してるんだもの」
それでもって、ニタァと小僧は笑って見せた。
***
……だからなんだって話ですが( 思い出したから貼っただけです。お粗末さまでした。
マネネのこの図鑑設定ちょっと気に入ったので気が向いたら何か真面目に書きたいですがまぁ言っているだけですね。だけです。。。
これはもう、もう、怒った。怒った怒った、と言いながら、マッギョはひたひた詰め寄った。狭い薄暗い店内に、ひらひらひらと舞い降りるは、白い埃、そして埃。商品棚の上に積まれた段ボールのその上で、招かざる小さな来訪者は、ケタケタケタと笑っている。
「おいちゃん、マッギョのおいちゃん」
「降りてこんかい、え。電撃出してもええんかいな」
「電撃! 電撃!」
我慢ならん。びりっと電気を発しながら、マッギョはニタァと顔を歪めた。電気を作ろうとするとき、ニタァと笑ってしまうのは、マッギョの生来の癖なのだ。すると、小さいのもニタァと笑う。あれは顔真似を好むのだ。
「やめんかいその顔」
そのニタァを見ていると、力が抜けて、うまく電気が放てない。あれはちゃっかり心得ていた。
ぴゃははと笑いながらそれが段ボールを渡り歩くと、更に埃が舞い散った。そしてぐらりと傾く紙箱。棚の最上部から崩れ落ちてきた箱の中身のリールの山が、次々マッギョの頭を殴る。そして殴る。店は釣り具屋であって、マッギョは看板魚であった。店主の老爺が居眠りをする時、ドアマットのようになってこういった招かざる者を警戒するのは、マッギョの生来の務めなのである。
怒り心頭で放ったどろばくだんはしかし、ちびの飛び避けた先に天井から下がっていた古いテレビを打ち抜いた。ぴゃーんと音を立てて液晶が砕けた。だどもマッギョのせいではない、全面的に悪いのはあれだ。悪いのはあれと、随分前から決まっている。こうして小童とまみえるのは、そうして被害を被るのは、つまり初めてのことではない。実に二十と七回目である。
そのマネネが初めてドアマットのマッギョ、つまりドアマッギョを踏んだのは、あれはもう忘れもしない、二十と七日前の事。開け放たれた扉の前で、右を窺い、左を窺い、したり顔で舌をぺろっと覗かせながら踏み込んできたマネネのことを、マッギョはもう生涯忘れることはないであろう。ドアマッギョを踏み、途端びりりと痺れて、おおうっふっと叫びながら逃げて行ったいたずらマネネは、次の日にはもう、ドアマッギョの上をすいっと飛び越えて釣り具屋への侵入を成功させた。したたかな小童なのである。
リールの箱とリールの箱とリールの箱を崩壊させて、どろばくだんの二度目の襲撃をかいくぐったちびっこはミャハハと笑いながらアイスショーケースの戸を開け中に飛び込んだ。その秘境から悲鳴が聞こえた。ジタバタもがきで開いた隙間から蹴り散らされてくる釣り餌のワームやエビや貝を、ここぞとばかりにマッギョは頬張る。すっ飛んできたサビキ餌袋はわざわざ開封しこれもまた頬張る。事故である。大事故である。ここまで騒がれておきながら、未だにカウンターで船を漕いでいる老爺の事は、誰もが敬わざるを得まい。
冷気の漂うショーケースから、そろそろと小僧は顔を覗かす。懺悔のニタァである。目は半月型である。
「反省してます」
「うむ」
「もう、びりびりしない?」
「うむ」
「どろんこも?」
「うむ」
「……アンコール、アンコール」
囁きながらリズミカルに手を叩かれると、怒りのままにマッギョはどろばくだんを放射した。
一弾目を踊るように華麗に避け、二弾目がクリーンヒットしてマネネはぶっ飛び商品棚に激突した。ばらばら落ちるは釣り針、釣り針、また釣り針。篠突く釣り針をひらりふわりと避けながら飛び着地したその先は、居眠る老爺の禿頭の上である。ヨガのポーズ! と高らかに宣誓しながらそこでポージングを決めたマネネへ、マッギョは惜しみなくどろばくだんを噴射した。危うく直撃は免れたが、ぴしぴしと顔に泥喰らいながらも老爺がまだまだ目覚めないのは、最早神業としか言いようがない、無論マッギョの。
しかしまあ、二十七回目の抗争も間もなくフィナーレの頃合いか。展示の釣竿を振りかざし凄ぶるテクニシャンぶりで老爺の丸眼鏡を釣り上げたところで、ぴくっとその瞼が痙攣した。がっと起き上がり老爺は俊敏に魚網を掴むと喚きながらそれを振るった。網の一閃に、マネネは帽子の先を取られながらも寸でのところで下に滑る。滑ってきたところをマッギョの体が引っ掛けた。おっとっとと言いながら反動で体が持ち上がると、宿敵はそのまま店外へと転がり出ていく。
「おいちゃん、それでは、また明日ぁ」
「もうこんでええわい」
「えー、でもさおいちゃん、嬉しがってるからなぁ」
何を根拠に、と言ったところで、マネネはくるりと振り向いた。
「だって、おいちゃん、こんな顔してるんだもの」
それでもって、ニタァと小僧は笑って見せた。
***
……だからなんだって話ですが( 思い出したから貼っただけです。お粗末さまでした。
マネネのこの図鑑設定ちょっと気に入ったので気が向いたら何か真面目に書きたいですがまぁ言っているだけですね。だけです。。。
PR
まぁ後から消したりこっそり増やしたりしてるんで本当はもうちょっと多いんですが
だからといってこれといってとくになにをするでもなく、誰かと誰かがポッキーゲームとかそういう謎展開になるわけでもなく
普通に更新報告です。例によって更新報告。すいません。
まずわ短編ですねーSPURTうpしました文合せの参加作品で5ポイントくらいいただいてたやつですシェイシェイ!
ページ作る作業してみて分かったんですがこれ10行しかないんですね 正確には10段落?メモ帳にコピペしてみて吹きました
書き直そうと思ってあげずにいたんですが、まぁ書き直さないかなと思ってコピペしてしまいました。また気が向いたら書きたいですね。
そんで更新じゃないんですが告知です!サイトTOPをご覧いただいたらわかっていただけるかと思うのですが、マサポケさんで出されるポケスコベスト本に私の作品を掲載していただけることになりました
私の文が本になるのは実は二回目です。一回目はポケ徹での同人誌で、3年前くらいになるのかなぁ知っていただいている方がいらっしゃったら相当長い付き合いですね
今回、トップに書いてるとおりこれ北埜名義でもなくとらと名義でもなく、『北埜とら』→『北と』→『ほくと』→『hokuto』名義で、いわゆる仮面出場でたしか5位くらいだった作品なんですが
なんで仮面だったかって、一年前くらいの作品でこのブログにも今までずっと報告してなかったんですが、「生まれゆく君へ」はものごっつ気に入らなかった作品なんですよね(そんなこと掲載していただく身で言うなって話なんですがまぁブログだし)
あんまりにも気に入らなさすぎて3人くらいの人にしか正体話さなかったくらい気に入らなかった作品で、そもそもそんなもん投稿するなよって話になるんですがまぁ書いたし……って感じで投稿したらこういう結果になってしまいまして、なんというかその
今回こういう機会をいただいて、この作品となんとなく向き合うことができたような、ちょっと当時の自分を認められることができたような、そんな気がします 本を手に取るんが楽しみです。
うだうだいうとりますが他の方の作品ガチでものすっごいのだらけなのでよろしくおねがいしますね!強調!ほかの作品が!!!
短編企画の文庫化ということで作品はネット上でも読めるんですが、大幅改稿されている作品がいくつかあるので、うむ 生まれゆく君へがどの程度改稿されているのかというと文字数若干減っています。
そんなこんなで
せっかくなので追記に短編一本おとしときます。長いので注意。非ポケモン一次注意。文合せ冬の陣一位いただいた作品です
(ラジオDJ風に)それではお聞きください。『メロンパン・プラトニック』
メロンパンだ。そうだ、メロンパンがいい。メロンパンを買って帰ろう。
そんなこと思い始めると、全部がブリキの安いオモチャになって、マイコにはどうでもよくなった。社会や算数の勉強なんて、ちっとも惹かれなくなった。今日は帰り道に、ご近所の飼い犬のマルを撫でて帰ろうとときめいていた、そのことも頭から抜けてしまった。ひとつのことに夢中になりだすと、心が火を噴くミサイルになって止まらなくなる、マイコにはそういうところがある。マイちゃんはちょっとだけ変ね、周りが見えなくなっちゃうのね、保健室の先生はそんなふうに言った。担任の小柴先生は四年の一学期の終わり、マイコさんは独特の世界観を持っている、そんなふうに通信簿に書いた。独特の世界観。その言い回しは、少しマイコのお気に召した。
それが一過性のものであるならば、マイコだってこんなに苦労はしていない。メロンパンいいな、メロンパン食べよう、今日の二時間目の国語の時間に突如そのことが頭に浮かんでから、帰りの会の一礼を済ませ、皆が動物園の猿のようになって教室を飛び出すその時まで、マイコはメロンパンのことだけ一途に考え続けていた。音楽の時間にはメロディーという歌詞をメロンと間違えて歌ったし、社会の時間にはノートをメロンパンらしきもののイラストで埋めつくしてしまった。休憩時間にもぼうっとして、メロンパンの絵には懲りたので、リアルタッチのメロンのイラストを大きくひとつ机に描いた。掃除時間、その机を動かした男子生徒がエッという顔をしていたのになんだか得意になって、マイコは窓の外に手をかざして、二つの黒板消しをいつもより多めに打ち鳴らした。ぼふん。ぼふん。白が多めのチョークの粉は、マイコの白い息と一緒に風に乗って、グラウンドへと流れていった。それと一緒にマイコも飛んでいきそうだった。目的地はそう、メロンパンのおいしいあのパン屋さんまで!
ちゃちゃっと掃除を終わらせて、トントン階段を降りて、下駄箱から運動靴を引っ張り出して。赤と白の上履きは、ランドセルの隙間の中へ。入れ替わりに筆箱を取って、そっと中身を確認する。そこに息を潜めていた、マイコのなけなしの百二十円。運が良かった。いつもはお金を持ち歩かないけれど、今日はスーパーの四個入りのドーナツを買うつもりで、貯金箱から抜いてきていたのだ。
誰にも見られないようにポケットに『なけなし』をしまって、そこからのマイコは誰より素早い。ランドセルをきちんと閉めるのも億劫でそのまま肩にひっかけると、後ろ手にひねり錠をカチャカチャやりながら歩いて、それ以上もたもたできずに走り出す。正門を越えて、上級生や下級生を追い抜いて。いざ行かん、メロンパンのいるところ!
目指すパン屋さんは学校から家の前を素通りして、しばらく行った所にある。比較的新しいパン屋さんで、隣町から越してきた女の人が営んでいるそうだ。こういうときのお母さんの情報網は凄くて、旦那さんと小学生の息子さんがいるそうよ、そろそろ追って引っ越してくるそうよ、というところまでマイコは聞かされて知っている。お母さんがそこで先日買ってきた一個百二十円のメロンパンは、サクッとしてて、あまぁくて、思わず弟のシュンと二人でうーんっと唸ってしまうほどのおいしさだった。シュンは前歯でちびちび削るリスみたいな食べ方をするから、いつもみたく胸元を汚して、お母さんに怒られていた。なぜだかマイコも巻き添えをくらった。けれど、それを差し引いても余りある、まっことおいしいメロンパンなのだ。
メロンパン、おいしいおいしいメロンパン! 一歩一歩弾むにつれて、マイコのお口はメロンパンのためのお口になっていく。こっそりお菓子を持っていってご近所のマルに見せてやると、マルは涎をだらだら垂らして尻尾を振って『待て』をする、マイコだってもしマルチーズなら、今そんな感じになってるだろう。いや、『待て』でさえきっとままならない。そのくらい受け入れ準備は万端だ。万端すぎて、生唾が出る。ごくり。
あぁ、どうしてこんなにお腹がすいているのかしら。今日だってきっと給食を、いつもと同じに食べたのに。そういえば、今日の給食はなんだったろう。食べたものを思い出せなくなることは、マイコくらいの歳でだって、よくある。マイコなんか、昨晩のご飯なんていつも思い出せない。でもそれは別に構わない、そんなこと思い出せなくったって何も問題は起こらないからだ。オネーチャンそういうのオバアチャンみたい、シュンがそう言ってばかにしてくるのは、ちょっと腹立たしいけれど。
こういうことを考えてると、マイコはいつだかテレビで見た、記憶の引き出しの話を思い出す。頭の中には大きな大きな棚があって、記憶っていうのはある事ごとに、その棚の別々の引き出しにしまっておくのだそうだ。その引き出しの数があんまりにも多いから、何度も何度も触っている引き出しの場所は覚えるけれど、あんまり使わない引き出しの場所はそのうちにすっかり忘れて、だから思い出せなくなってしまう。何月何日の晩のおかず、なんて記憶はよっぽどのことがない限り触ることがないから、きっと奥の方の引き出しに入れっぱなしにするんだろう。けれど、さっき食べた給食の引き出しの場所は、しまいこんだばっかりだから思い出せたっておかしくない。どこにいれたんだっけ。さっき引き出して入れてから、一度も触っていないお昼ご飯の引き出しが、棚のどこかにあるはずなのに。
膨大な量の引き出しが、マイコの前にそびえ立っている。あてずっぽうだ、その一つを引いてみる。ごとり。コーンスープの香りがする……あぁ、これは今朝のコーンスープだ。コーンスープと、プチトマト、ちくわの中に棒のチーズが入ったやつと、晩の残りのおみそ汁。今朝はお母さんがいなかったから、マイコとシュンとの二人分を、マイコ一人で用意した……
はた、とマイコは立ち止まった。気がつけば、家のマンションの前にいた。
高い高いマンションは、どこか記憶の引き出しを思わせた。
凍え乾燥した冬の空の下を走ってきたから悪かったのか、砂漠の中に呑まれるみたいに、唾が引いて喉が渇いた。その砂が胸の奥に落ち込んで、体が重たくなる。明確だった頭のビジョンが蜃気楼みたく霞んでいった。動かぬ灰色のマンションを見上げて、マイコは――なぜだか、このままエントランスをくぐって、エレベーターに乗って、七階の家まで帰った方がいい気がしてきた。ポケットの中の百二十円をそこの自販機に飲み込ませて、ホット缶のコーンスープでも買って、シュンの待つ我が家へと急いだ方がいいような。きんきんに冷えた足をこたつのなかに突っ込んで、夕方のニュースでも見た方がいい。そうだ。その方がいいに決まっている。
マイコは歩いて青い自販機の前に立つと、ポケットから百二十円を取り出した。ちゃりん、ちゃりん。『なけなし』を飲み込んだ自販機がヴンヴンと呻り始める。ちゃりん。いつもなら持ち歩かないはずの百二十円。あぁ、どうしてだろう。どうして今日に限って、ドーナツを買って帰ろうなんて贅沢をしようと思ったんだっけ。指を伸ばす、コーンスープの赤く灯った、楕円形のボタンをなぞる。なんでだろう。分からない。分からないけど、何か――
お釣りのレバーを押して戻して吐き出したお金を取り返して、マイコは走り出した。学校もマンションも背に走り出した。喉が詰まって、なのに白い息がほうほう漏れて、足の先がじんじん痺れる。そう思い始めると、寒い。マフラーも手袋もランドセルの中だろうか。突っ込んだ上履きに押しやられて、底で小さくなっているのだろうか。もしかしたら教室の机の中かもしれない、そうだとしたら最悪だ。
あぁ。走っていくマイコを、すれ違った人が変な目で見た。あぁ。優柔不断だ。最悪だ。何が入ってるか知れない引き出しなんて開けなければよかった。メロンパン、サクサクのメロンパンの中のふわふわの幸せのことだけを、じっと考えていればよかった。
新しいパン屋さんは営業していたけれど、別段良い匂いはしなかった。電信柱の上から、一羽のカラスがじっと見ていた。戸を引いてお店に入ると、生ぬるい空気がマイコを包んだ。外から見たのと違わない、こぢんまりした狭いお店だ。カウンターには誰もいない、ごめんください、マイコは小さな声で言ってみた。誰も出てこない。レジの横には、黒いネコの置物が、黄色い目を光らせてマイコのほうを窺っている。ごめんくださぁい! 叫ぶと、はいはぁい、と返事が聞こえた。女の人の声じゃない。
お金を包んだ拳を固く握りしめて、お店の中を見渡した。サンドイッチ。クロワッサン。ひよこを模した丸いパン。その空間で、マイコは『異物』みたいだった。マイコという存在だけが、てんで場違いのように思えた。早く帰りたくって足がうずく。レジ皿に百二十円置いて、メロンパンだけ手に持って、さっさと出ていってもいいのだろうか。振り返ると、お目当てのメロンパンは、ガラスを挟んで道路に面したショーケースに、規則正しく並んでいた。メロンパンだけじゃなく、どのパンも整然と置いてあった。まるで、はみだしものに用はない、とでも言うように。
どくん、どくんと、心臓は妙な音を立てていた。メロンパンに近付くと、その奥のガラスの向こうに、さっと黒い影がやってきた。カラスだ。足を一歩引く。カラスはガァガァ鳴いて、見た感じよりずっと大きな、真っ黒な翼を震わせて、爪と、鋭いくちばしで、ぎらぎら光る目で、ガラスをへだてたマイコに襲いかかろうとした、マイコは驚いて、キャアッ、と目を瞑って、身を縮めた次の瞬間、
「――大丈夫?」
そんな声が降ってきて、ふわりと何かに包まれて、マイコは目を開けた。
目の前に、知らない人がいた。マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに、タキシードをきちっと着こなしていて、黒い蝶ネクタイをつけている。ハットまでかっこよく被りこなしている。そして、背中から黒い翼が生えている。
いつのまにかうずくまっていたらしいマイコの前でその翼を折りたたむと、タキシードの男の子はひどく悲しそうな顔をした。
「すまなかった。仲間がひどいことをしたんだ」
あまりにもぼうっとしすぎて、その意味がよく理解できず、とにかく謝られているということだけ把握して、なんとかマイコは首を振った。ぷるぷるとばね付きの人形みたいに頭を揺らしているマイコに、男の子はやっぱり悲しそうな顔をした。
「少し動揺しているみたいだね。うちで休んでいくといい」
「う、う?」
マイコはそれしか言えず、けれどその返事を男の子は好意的に受け取ったようで、へたっているマイコの手首を取ると、ぐいっと引き上げた。
立たされて、手を引かれて、マイコは男の子と歩き始めた。
静かで可愛らしい町並みを二人はしばらく歩いた。不揃いのデザインが施された茶色の石畳の歩道に沿って、オレンジや黄色を基調にした、おもちゃみたいな家がぽつぽつと並んでいる。つるつるの屋根から伸びた煙突が、モクモクと白い煙を吐いている。あれ、なんだか『へんてこ』だ。マイコの住んでいるあたりに、こんな通りはなかったはず。ここはどこだろう。パン屋さんは、どこへ行ったんだろう。ようよう落ち着いてきて隣を見ると、真っ黒の翼は町にちょっとだけ浮いていた。目があって、彼はニコリと返してきた。
「君の名前は?」
「えっと、木村マイコ」
「マイコちゃんか。なるほど」
「あなたは――カラス?」
自分でもおかしいなと思ったその問いに、彼はやっぱりニコリと笑った。
「それ以外の何かに見える?」
マイコと彼――カラスとは、てくてくてくと、『へんてこタウン』を歩いていく。
温かい手のひらに連れられて最初はどきどきしていたけれど、そのどきどきがびくびくのどきどきからわくわくのどきどきへと変わるまで、それほど時間はいらなかった。
だってここは、マイコが毎日朝昼晩、思い描いているような世界なのだ。星は赤色、雲は青、太陽と月が一緒に踊っているピンク色の空の中を、一隻の宇宙船が金平糖を吐きながら渡っていく。茶色の石畳の上を、金色の魚が泳いでいる。こんもり茂った並木からは、ドーナツの木の実が下がっている。横断歩道の白線はコンベアみたく流れて、向こう岸までマイコたちを連れて行ってくれる。こんなのまるで妄想の中。あんまりにも嬉しくって、首やら目やらをぶんぶん振って、マイコはずんずん歩いていく。カラスもずんずんついてくる。
ライオンのえりまきをしたトラ猫が、ワンワン言いながら逃げていく。薬局前のカエルの置物が、素敵な歌声を響かせている。ちょっと人のおうちの窓を覗くと、真っ白と真っ黒の大きな大きなドラゴンたちが、こたつに潜って昼寝している。そんなことしたって、こらこら、とたしなめてくる大人たちはだぁれもいない。ふふぅ、と笑いがこみあげて両手で口を押さえていると、目の前に川が現れた。橋も小舟もない。川面を覗きこんだ瞬間、ふわっと立ち込めた匂いには、思わず声を上げてしまった。
「コーンスープだ! おいしそう!」
コーンスープだねぇ、とカラスも笑った――そうなのだ、濃い黄色の川の中に、つぶつぶコーンが浮かんでいるのだ。どろどろ流れる水面には、自分の顔も映らない。すごいすごい、マイコは思わず手を叩いた。これならお湯を沸かさずとも、毎日毎日飲み放題だ。でも、川の中に入ったらおいしくっておいしくって、ついつい溺れて死んじゃうかも。それを想像したら、やっぱり笑いが漏れた。ぼくの家はこの向こうだ、カラスは得意そうに言った。
「ねぇカラス、分かったよ」
「ほう、何が分かった?」
「これは夢。わたしは今、夢の中であなたといるの」
「なるほど。でもどうして?」
こんなへんちくりんな話をしているときに、どうして、なんて聞き返されたことなんて今まで無くて、マイコはちょっと熱くなってしまう。
「だって、コーンスープの川なんて夢の中にはありえても、現実にはありえないもん。現実ではね、水の色は透明。汚れてても緑。泳いでいるのはコーンじゃなくて魚だもの。それに――」
ひゃあっとマイコは悲鳴を上げた。急にマイコを、お姫様だっこの形にカラスは抱え込んで――黒い翼を広げると、軽々空へ飛び立ったのだ。
はためきの音、流れる景色、ひたひた頬に当たる風。カラスの胸にぴったり頬をつけて、マイコはカラスの顔を見ていた。まっすぐ前を向いているカラスの黒々した瞳に、吸い込まれそうとマイコは思う。自分のかカラスのか分からない心臓の音が、どくどく耳に届いてくる。自分を守ってくれた彼。手を取り歩いてくれる彼。マイコの話を馬鹿にせず、真剣に聞こうとしてくれる彼。お姫様だっこに憧れるような、そんな年頃の女の子ではマイコはなかったけれど――すとんと着地して、カラスはマイコの顔を覗きこむと、それに? と続きを促してきた。
「それに、人間は空を飛ばないよ。そんなの童話の世界だけ」
聞いて、カラスはふっと微笑んだ。そういうちょっと大人びた顔が、さまになるような男の子だった。
もう一度手を取り合って、二人はコーンスープの川を背に歩きだす。
「どうしてそうだと言い切れる?」
「……どういうこと?」
「ない、ということを証明するのは、途方もなく難しいことだ。コーンスープが流れてる川をマイコが見たことがないからって、それが世界中どこを探してもないとは言い切れない。空を飛ぶ人を誰しも知らなかったからって、絶対に存在しないとは言えないだろう。世界の隅々までのことは、神様だって知らないんだから。ありえないと言うことは、どこまでいってもありえない」
ここがぼくの家、と彼が指し示した家の前で、じゃあ、とマイコは、温かい手を握り返した。
「魔法が使える人間も、もしかしたらいるかもしれない?」
カラスはそんなマイコの横で、右手を高く掲げると、パチン、と指を鳴らした。
触れてもいないドアの取っ手が、その瞬間くるりと回った。ススス、と手前にドアが開いた。中には誰もいない。カラスはマイコの背中を押して、招き入れるようにそこを潜った。
「ゼロであるとは、言い切れないね」
カラスはそう言って肩をすくめた。
へんてこタウンとは打って変わって、カラスの家は薄暗かった。でも、焼き立てパンみたいなお腹の底をくすぐる匂いが、玄関にまで充満していた。
ここからは土足禁止だよ、と止められたところで靴を脱ぐと、マイコはランドセルから学校の上履きを取り出した。足の甲のゴム部分に大きく『4の2』と書かれているのを見て、カラスは目を丸くする。
「マイコは四年生?」
「うん」
「へぇ、そうか! 年下かと思ってた。ほら、マイコは背が低いから」
そういうふうにからかわれるのは、別に嫌いではない。カラスがどこからかスリッパを取り出して来るのを、マイコは部屋の奥をそわそわ覗きこみながら待っていた。居間の方も、薄暗い。誰と住んでいるのだろうか。
「上履きなんて、よく持っていたね」
こちらへどうぞ、と案内される方へと、マイコは歩いていく。長い長い長い廊下。ゴム底の擦り切れたマイコの上履きは、ぺたぺたと音を立てる。古い色合いの床板が、踏むたびにキシキシ鳴いている。
「持って帰らないと無くなっちゃうんだもん。自分のことは、自分で守らなくちゃ。学校は毎日が戦争みたい」
「戦争。それは、大変だ」
神妙に呟いたカラスの横顔が、同じ間隔で並んでいるランプの明かりに浮き沈みする。
急に気持ちが沈んでいくとき、マイコはそれを止められない。さっきまで浮ついていた体が、心の底の、真っ暗な茂みの沼の中へ、ずぶずぶずぶと嵌まっていく。瞬きをすると、まぶたの裏に張り付いた、重くて硬くて冷たい校舎が、マイコの行く手に見え隠れする。
さっきまで握っていた隣の手のひらを、もう一度黙って取る。隣も握り返してくる。温かい。カラスの左手は、マイコの欲しい温かさを、きちんと理解しているみたいだ。
十二個目のランプの前を通ったとき、ふとマイコは首を回して、あっと声を上げた。
「カラス、怪我してる」
マイコの視線の方を気にして、カラスは畳んだ翼を震わせた。薄ら明かりに照らされたカラスの左翼が、赤黒い血を滲ませている。
どこで怪我したの、と問うても、どうってことないよ、とカラスは微笑むだけだった。どうってことないなんてこと、マイコにとってはあるはずない。それはだって見るからに、じくじく痛むに違いないのだ。夢みたいな世界にいるのに、カラスはそんな痛みをこらえて、マイコを抱えて飛んだというのか。手を引いて歩き出したカラスをしつこいくらいに問いただすと、困った顔でカラスはこれだけ言った。
「……ぼくも戦っているんだ」
カラスも戦っている。その答えは、不安を駆り立てるものでもあって、それと同じだけ、『戦っている』のがマイコだけではないのだと、そんな安心感も与えてくれた。
「わたし、ばんそうこう持ってる」
「そんなものくれるのかい。ぼくなんかに」
ランドセルのポケットに忍ばせていたばんそうこうは、傷には少し小さかった。どう貼ろうか考えあぐねて、斜めにそれを貼りつけた途端に、ばんそうこうは緑色の光になって、あっという間に弾けてしまった。するとカラスの怪我は、立ちどころに治ってしまったのだ。あたかもマイコが、魔法でも使ったかのように。
「ありがとう、マイコ」
名前を呼ばれるのはなんだか照れくさくて、マイコはちょっとうつむいてしまった。
ようやくたどり着いた部屋は広間で、奥にはカウンターとキッチンが見えた。落ち着いた照明のアンティークなお部屋の真ん中で、ヨーロピアンな椅子を示されて、ハーブティーでも入れるからそこに座っていてとカラスは言った。きょろきょろお部屋を見回しながら、マイコは大人しく待っていた。パンもお菓子も見当たらないけれど、優しい甘い素敵な香りが、お部屋いっぱいに広がっている。古いミシンの置物、ダイヤル式の黒電話。焦げ茶のイーゼルに立てられた女の人の絵。主張の控えめな観葉植物。落ち着いた色合いのキルトが、木調の壁に掛かってる。
そわそわするほどおしゃれな空間。けれども、マイコの夢見る『へんてこタウン』とは、どうにも趣きが違いすぎる。ここは本当に、わたしの夢の中? ――そのとき、ひとつ異彩を放っている大きなものが目に入って、マイコは完全に思考停止した。
それは、毎朝毎晩見かけていた、青い自動販売機。
――どぅん、と心臓が驚いたような音を立てた。立ち上がると、ぎこっと椅子が鳴った。一歩二歩歩くたびに、しゃれた家具や、小物やキッチンが、ミシンが電話が草がキルトが絵画の中の見慣れぬ女が、じっとマイコを見つめていた。薄暗い空間に、無機質な電灯を落とす、汚れた自動販売機。陳列された黄色い筒。唾を呑む。けれども喉がつっかえている。赤く灯った楕円のボタン。さっきなぞったそのボタン。もう一度そこに触れようと、マイコは吸い寄せられるように、甘い言葉に誘われるように、その赤色へと指を伸ばして――誰かがそっと、頭を撫でた。
「行ってみる?」
自販機の横、やはり長く伸びた廊下を指して、カラスは言った。マイコは浅く頷いた。
奥にはエレベーターがあって、二人はそれに乗り込んだ。
エレベーターには正常なボタンが無くて、『7』だけ置き忘れたみたいにひっついていた。ぐんぐん上昇する箱の中で、二人は黙っていた。チン、と開いた扉の向こうに、慣れたはずの景色が広がっていた。マイコはカラスの先を歩いた。
表札のかかっていない一室の前に二人は止まった。ランドセルのいつもの場所からいつもの鍵を取り出すと、その鍵穴にマイコはそいつを捻じ込んだ。
いつものようで、なんだか少し重く感じるドアを開いて、マイコは驚いた。――驚いたのに、なのにどこかで、そうだと分かっていたような気もした。
そこに、マイコの家はなかった。誰か別の住人の家でも、もちろんなかった。そこに待っていたのは、ただただ白い壁と、床と、高く高く高く聳える、大きな大きな『棚』であった。
それが記憶の引き出しであると、マイコにはすぐに分かった。だって自分のことなのだ。大きさも色も形もてんでばらばらの引き出しが、勝手に開いたり閉まったり、中身を吐き出したり吸い込んだりしている。収まりのつかなかったがらくたが、棚の足元に散らばっている。何重にも鉄のチェーンが巻きつけられて、南京錠の掛かったやつが、開けてほしい、開けてほしいと言わんばかりに、呻いて細かく震えている。そんなひどい引き出しでも、それでも、自分のことだから、そうだと分からないはずがない。
白い部屋に、黒い黒い影を落とす、マイコの巨大な記憶の引き出し。
シュン、どこ、マイコはそう叫んだ。自分の家のドアを開けたのだから、弟のシュンは部屋のどこかにいるはずなのだ。どうしようもなく嫌な予感がして、マイコは思わず部屋の中に駆け込んで、がらくたの類を跳ね除け始めた。シュン、出てきて、言いながらかき分ける、まだぴかぴかのランドセル、真っ白な上履き、リコーダー。頭の上に降ってきた、あの日の黒板消し。リビングの花瓶の萎れた花。空いたビールの缶……。
引き出しの裏から飛び出してきた何かを見て、マイコは弟を呼ぶのをやめた。チョロチョロと走ってきたのは、見覚えのない子リスだった。子リスはマイコの足元に立つと、膨らんだ片頬を両手で押して、器用に何かを吐き出した。そして、座り込み、伸ばしたマイコの手の上に、唾液に濡れたそれを渡した。
それは、おもちゃのような小さな鍵だった。
「……これ、なに? これはいらないよ」
戸惑うマイコの黒い瞳を、子リスの相貌も見つめていた。まっすぐ視線をぶつけてくる子リスに、マイコは気持ちが負けそうになる。ビーズのような子リスの目玉が、小さなマイコを映している。リスはすくっと立ち上がった。そして言った。
「おくびょうもの」
――世界が崩れ出した。歪みヒビ入った床に立っていられなくなると、後ろからカラスがマイコを抱き上げた。傾いた棚から滑り出した無数の引き出しが崩落し、二人と子リスに襲い掛かった。カラスは翼をたたみ、マイコを抱えたまま急降下していく。対して子リスは、突然長い翼を広げ、崩壊する世界を高く飛び立っていくではないか。
「シュン待って! シュン!」
呼べど、子リスは振り返ることを知らない。
すとんと着地して、するとそこはさっきの椅子の横だった。カラスの家の家具と小物は、長すぎる地震みたいな震動にぐらぐら揺れていた。靴を履いて、早く、そうカラスが急かすのにマイコは慌てて踵を返し、元来た廊下を今度は一人駆け抜けた。狂ったランプの点滅する長い廊下を、無我夢中で駆け抜けた。暗闇の中で上履きを脱ぎ捨て、なんとか運動靴に履き替えたところで、追いかけてきたカラスに腕を掴まれ二人は玄関を飛び出した。
「まだ上履きがっ」
「そんなのは後!」
驚いたことに『へんてこタウン』は、どこからか湧き上がってきた黄色い流砂に今にも飲み込まれようとしていた。二人の駆けていた通りの石畳も、じきに砂に覆われた。足がとられて走りづらい。カラスは右手を口元へやって、ぴゅうっ、と指笛を吹いた。途端、倒れかけていた木々の陰から、白い塊が飛び出してきた。
「マル!」
見覚えのある、綿あめみたいなマルチーズにマイコは叫んで――それからマイコはカラスの手で、その背中に乗せられた。マイコがしがみついた、マイコの知っている五倍くらいの大きさのマルに、マイコを頼む、カラスはそう声を掛けた。
翼を煽ってカラスは空へ飛び立った。その背を追って、おもちゃの家が沈んでいく砂漠の上を、マルは風のように疾走した。
淡いピンク色だった空が、だんだん赤らんでいっている。星も雲も金平糖を吐く宇宙船もそこにはない。ただ、カラスの目指すところ、赤らんだ空の一番赤い場所に、真っ黒い巨大な影が暴れている。黄色の目を光らせている。マイコが怖気づいたところで、黒い怪物は泡のような砲丸のようなものをカラスへと放った。
「カラス危ない!」
マイコの声に応えるように、カラスは翼を振るった。両翼が生み出した黒い衝撃波が、敵の攻撃を打ち崩していく。崩されたその砂塵がマイコとマルにも襲い掛かる。急にうっと気分が悪くなって、マイコはマルの首元に顔を埋める。ふいに振り返ったカラスがマイコの異常に顔色を変えた瞬間、鋭い砲丸攻撃がその翼にぶち当たった。
カラスの声にマイコが顔を上げた時には、もう遅かった。カラスはぐるぐると回りながら、砂漠へと無防備に急落していく。その光景にぞっとしたばかりに、怪物から放たれたものがマイコとマルへと差し迫っていたことに一瞬気づくのが遅れてしまった。マイコは背に伏せ、マルは必死にそれを避けようとしたが、無駄だった。流れてきた黒い泡のひとつが、マイコの体を包み込んだ。
『――マイちゃんはちょっとだけ変ね』
聞こえてきたのは、声だった。保健室の、先生の声だ。あの鼻にかかった声、教室に行けないマイコを見た、呆れたようなその眼差し。
あぁ、なんだ。息が苦しい。次々砲撃がマイコを襲う。忘れかけてた音と色とが襲ってくる。落ちゆくカラスを臨む視界が、暗く明るく塗り変わっていく。
『――誰ですか、木村さんの上履きを隠したのは』
『――自分でやったんじゃねぇのかよ』
小柴先生の声と、終わらない帰りの会に苛立った、クラスメイトの囁く声。
マルのキャンキャン吠える声。力ないカラスの翼が近づいてくる。傷まみれの翼。ばんそうこうは足りるだろうか。間に合うだろうか、せめて地面にぶつかる前に。
――とぼとぼと歩く帰り道。追い越していく、無数のランドセル。連れ立って綺麗な一軒家に入っていく、四年の同級生たち。
精肉店で買って帰る、ちょっと冷めたコロッケ。あそこのお宅大変なのよ、リコンしたんですって、お姉ちゃんの方も気を病んだというか、少しおかしくなったみたいで――耳を塞いでも流れ込んでくるご近所さんの噂話。
マンションの七階のドアを開ける。以前より、電話していることが多くなったお母さん。受話器を置いて、たまにこんなことを言うお母さん。
『魔法が使えたらよかったのにね、幸せな頃に戻れる魔法が』
夕暮れ、薄暗いリビングで、白く光るテレビ画面を、頬杖をついて眺めるシュン。
『オネーチャン、学校、たのしい?』
――――全部、全部、引き出しの奥底に無理に押し込んだ、目を背けていた記憶たち。
「カラス!」
滑り込んだマルの背中に、どさっ、とカラスは落下した。左の翼が歪んでいる。マイコが触れるだけで、うっ、とカラスは呻き声をあげる。目の前に、記憶を放つ怪物は、いまだに黒く佇んでいる。マイコはカラスの手を握る。温かい。欲しかった温かみを、カラスの手はマイコにくれる。なのに、もう、どうしていいのか分からない。
「カラス、いつも一人で戦っていたの?」
「ぼくは都合のいい存在であればよかった」
カラスはそう唸った。そんな声をかき消すようにマイコは続けた。
「カラスはわたしのために、わたしが夢ばっかり見て、妄想ばっかりして、いろんなことから逃げてるときに、ずっと戦ってくれていたの?」
「ぼくは君の、君にとっての、都合のいい存在でなければならなかった」
そんなのってない、そう言ってマイコはカラスの体を抱きしめる。受け止められない思い出に向かって、自分の代わりに傷ついていた、黒い翼を抱きしめる。目から涙がはらはらこぼれる。こぼれて、黒塗りの翼に浸み込んでいく。
「だってわたしのことなんだよ!」
――世界が明るみを増していく。
砂が消えていく。『へんてこ』なものたちも消えていく。赤かった、ピンクだったマイコの空が、真っ白な光を帯びていく。マイコとマルとマイコのカラスと、マイコの記憶の怪物だけが、マイコの視界を描いていく。
自らの中に受け入れていく記憶が、後ろ盾になっていく。剣になり、弓になり、鋭い槍になっていく。力が湧き上がってくる。汗ばむほどに熱い手が、握り返してくる。カラスは翼を広げると、お決まりの『ニコリ』をマイコに向ける。
「……君は加湿器みたいな人だ」
カラスの紡ぐ音が、世界のそれだけになっていく。
「君の声は、ぼくの瞳に潤いをくれる」
「君の言葉は、ぼくの翼をつややかにする」
「君の涙は――ぼくに、飛び立つ力をくれる!」
強くはばたき、カラスはマルの背を発った。カラスの翼の巻き起こす旋風が、マイコの気持ちを扇動し、怪物へ向かっていくマルの全身の躍動が、マイコの心を高ぶらせ。消えていくコーンスープの川の、黄色く浮かぶコーンの上を、蹴りつけ、乗り越え、飛び越えて、彼女らは力いっぱい猛進していく。すっと眼前をよぎったものは、あのときの翼付きの子リスだった。子リスにかける上手な言葉が見つからなくて、マイコは奥歯を噛みしめる。悔しくて、情けなくって、なのにびっくりするほどに、体が前を向いている。
子リスはマイコの肩に乗り、チチッと鳴いた。黒々した目が、マイコを映した。マイコは――その背に畳んだ白い翼を広げると、カラスのそれに習うように、マルの背中を飛び立った。
風が髪を薙ぎ頬を打つ。頭の中が明るくクリアになっていく。急速に近づいてくる真っ黒い影は、もはや怪物の形ではない。マイコの一部になるはずのもの。目を背け、悲しい思いをさせていたもの。マイコが、手を伸ばすべきもの。
カラスの左手が、マイコの右手を掴んだ。きつくそれらを握り合って、二人は飛翔した。高く、高く、高く。そこに黒く広がっている、太陽みたいな輝きの中へ。目を合わせ、呼吸を合わせて、二人は握った手と手を伸ばす。伸ばし、怖くない、怖くない、心の中で呪文のように唱えながら、黒い渦の真ん中へと、二人の腕が吸い込まれていく――
そのあと、甘い香りがして。
空から雪か花びらみたいに、メロンパンが降ってきた。
降り積もる飴玉みたいなメロンパンの中を、マイコはさくさくかき分けた。その次は、へたっぴの積み木みたいなメロンパントンネルの中を、腰を屈めてくぐっていく。唾は出ず、不思議とお腹も鳴らなかったけれど、サクサクの中のふわふわの幸せが、そのあたりには詰まっていた。
その先にあったものは、なんてことはない、小さな小さな宝箱だった。
マイコは少し拍子抜けしてカラスを見た。世界はもう完全に真っ白になっていて、マイコの目には、彼と、その宝箱しか映らない。マイコがぼうっとしているので、カラスはその箱を手に取って、マイコへと手渡した。
「マイコはもう、持ってるよ? その宝箱の鍵を」
そう言われて、握りしめていたこぶしをひらくと、子リスにもらったおもちゃの鍵が、ちょんと手のひらに乗っていた。
鍵穴に差し込むと、おもちゃの鍵は容易に回った。かちっ、と音はしたけれど、それを開くのはなんだか怖くて、マイコはそっと視線を移す。君のことだろう、とカラスは笑った。その柔らかい笑い方に、マイコもちょっと気が弛んだ。
少しずつ開けようと思って手をかけると、わずかの隙間が生まれた途端に、箱の中から、虹色の糸のような細い光が、するすると外へ流れ出した。
力が抜けていくように、マイコと、マイコをふんわり抱きしめたカラスとは、その光の帯を見ながらゆっくりゆっくり落ちていった。じんわり回りながら下へ、下へ流れていく二人の傍を、メロンパンがふわふわ舞っていた。温かくて、せつない気持ちで、鼓動は静かでも胸が苦しくなった。両手で口元を覆っても、目だけはマイコは、その光からそらさなかった。
光がそこに描いたのは、ちっちゃなマイコと、まだ赤ちゃんのシュンと、二人を愛おしそうに抱きしめた男の人が笑っている、一枚の古い写真だった。
降りしきるメロンパンの姿に隠れて、だんだんそれが遠ざかっていく。変、とマイコは小さく笑う。だって、嬉しいのに、こんなにも涙がでる。さっきだって、本当はそうだったのだ。自分のために戦っていたカラスのことが悲しくて、苦しくて、なのにすぅごく温かくて。
「帰らなきゃ。思い出したの」
「ほう。聞かせてごらん」
マイコは頷いて、目を閉じた。涙の滴がほっぺをつぅと伝って、顎の先からぽたぽた落ちた。
「今日ね、お父さんが帰ってくるの。お父さんに会うの、本当に、本当に久しぶりで……学校のこととか、うまく話せるか、怖いんだけど……」
ほっぺたをカラスの指が拭って、ふふっとマイコは笑顔をこぼす。
「メロンパンをね、買って帰るんだ。お小遣いあんまりないから、一個しか買えないんだけど、とってもおいしいメロンパンでね。よっつにちぎって、お父さんとお母さんと、シュンとわたし、みんなで分けて食べるの。……怖いけど、楽しみ」
それは楽しみだ、カラスの優しい声が、頭の上から注いでくる。
目を開け、差し出された透明なガラス玉を、マイコは受け取った。きっとそれは、こぼした涙の結晶だ。手のひらに乗せていると、ガラス玉は、すうっと薄らんでマイコの胸へと吸い込まれていった。
「今日のことは、引き出しなんかじゃなく、宝箱にしまっておいて」
ささやくようなカラスの言葉に、うん、とマイコは頷いた。
腕が離れ、手のひらが離れ、名残惜しげに指先が離れて、さなぎから旅立つ蝶のように、マイコはカラスから遠ざかっていく。また会える、と問う声に、カラスはしっかり頷いた。
「もちろん。マイコが望むなら、いつだってぼくらはまた会えるさ」
その刹那、花吹雪のようにメロンパンが舞いおどって、カラスの姿は見えなくなった。
*
ひんやりした空気にぶるっと体を震わせて、はたとマイコは目を覚ました。
きちんと閉めたはずの入り口のドアが全開になって、そこから外気がびゅうびゅう流れ込んでいる。やめろ、あっちいけ、と叫ぶ男の子の声が聞こえて、なんだなんだ、とマイコは座り込んだまま首を伸ばした。陳列棚の影に隠れて、お店の目の前で竹ぼうきを振り回していたのは、マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに――タキシードを着ていない。黒い蝶ネクタイもつけていない。ハットまでかっこよく被りこなしてなんていない。そして、背中から黒い翼が生えている、なんてことはもちろんない。
けれども、そっくりだ。マイコはこれでもかってほど目を大きく丸くする。そこで、バタバタ暴れているカラスを追い払おうとしているのは、うちの学校の体操服を着た、『カラス』そっくりの男の子だった。
さっきマイコを驚かせたカラスがようやく去っていってから、ふーっと息をつきながら男の子は振り返った。むすっとした顔も、あ、いやえーっとこの体操服はさたまたまちょっと試しに着てて、なんて言い訳する立ち振る舞いも、ちっとも『カラス』ではないけれど。顔も背丈も、写したみたいにそっくりだ。マイコはぱちくり瞬きをしながら、えっと、と小さく言葉を落とした。
「……カラス?」
「え? あ、あー……友達なんだ、あいつ。隣町に住んでたのに、おれが引っ越すのにわざわざついてきたみたいなんだよ。……変だろ、カラスが友達なんて」
あぁ、声まで、あまりにもそっくり。――狭いお店の真ん中にマイコがいつまでもへたりこんでいるので、男の子は照れたようにぼりぼり頭を掻いた。
「何の用? パン買いに来たんじゃないの?」
でもぶっきらぼうな喋り方は、全然『カラス』じゃない――そこまで考えたところで、やっとマイコは現実世界に戻ってきた。正しくは、戻ってきてる、と実感した。そうだ、ここはメロンパンのパン屋さんだ。メロンパンを買うために、ここまで走ってきたんだった。
「め、メロンパン……」
それだけなんとか声にして、わたわたとポケットに手を突っ込んで、マイコは百二十円を男の子に手渡した。男の子はそれをしげしげ眺めて、もう片方の手でまた頭をぼりぼり掻いた。
「ごめん、百五十円なんだけど」
「え、うそ」
「うそじゃない。悪いけど、今日から一個百五十円。かあさん、おれが知らない間にめちゃくちゃな値段つけるから」
だからあと三十円、と男の子は手を出した。ぼっと恥ずかしさがこみ上げて、マイコは耳まで真っ赤になった。なんだか居ても経ってもいられなくなって、やっぱいい、と首を振ると、ほとんど泣きっ面になりながら開きっぱなしのドアをくぐって駆け出した。
外は相変わらず寒くて、でも体は芯までぽっぽしている。足がもつれて、ランドセルのふたもぼんぼん鳴ってスピードが出ない。おい、と男の子の声がした。無視を決め込んでマイコは走ろうとした。
「おい! 上履き忘れてる!」
けれど、そこまで言われると、やっぱり立ち止まらざるを得なかった。
お店の玄関の前で彼が高く掲げているのは、マイコの古臭いゴム底擦り切れ上履きである。いつの間にランドセルから飛び出したのか。もう、恥ずかしい。恥ずかしいったらありゃしない。
「返してよ!」
別に取られた訳でもないのにそう叫んで、マイコはそこまで駆け戻った。男の子は上履きを高く掲げ、なかなか下ろそうとしない。手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねるマイコの反応を、楽しんでいるとしか思えない。
「なに、お前、四年なのな? チビだから年下かと思ったわ」
足の甲のゴム部分に書いてある『4の2』を見ながら、男の子は嬉しそうな顔で言った。いじわるな奴だ。一端しゃがみ、特大の不意打ちジャンプをして、マイコはそいつから上履きを取り返してやった。
「あ、お、おい」
急に威勢が悪くなって、男の子はまたマイコへ呼びかける。ふんだ、もう知らない、二度と振り返ってやるもんか、マイコはそんな気持ちで通りをずんずん歩いていく。あ、あ、あのさぁ。男の子の声は、なんだか気恥ずかしさをはらんでいる。
「おれも四年二組なんだけど……明日から」
さっきの決意はどこへやら、マイコは思わず振り返ってしまった。
もう一度、まじまじ眺めても。カラスそっくりと言えど、男の子は学校では見覚えのない顔である。クラスメイトどころか、学年にだってこんな顔知らない。へ、とマイコは気の抜けた声を出した。それから、あ、と思い当たるのは、お母さんの噂話。確か、小学生の息子さんが近々引っ越して来るとか、どうとか。
男の子は見ている方がこっぱずかしくなるようなうろたえた表情で、今度は両手で頭を掻いた。
「だからその……あのさ。算数とか社会とかどこまで進んでるか、よかったら教えてくんない? ……何ならまけてやるからさ、メロンパン」
ぼうっとして、それでもマイコは頷いていた。
電信柱の上から二人を眺めていた影は、ひとつ翼をひらめかせると、夢の国へと消えていった。
だからといってこれといってとくになにをするでもなく、誰かと誰かがポッキーゲームとかそういう謎展開になるわけでもなく
普通に更新報告です。例によって更新報告。すいません。
まずわ短編ですねーSPURTうpしました文合せの参加作品で5ポイントくらいいただいてたやつですシェイシェイ!
ページ作る作業してみて分かったんですがこれ10行しかないんですね 正確には10段落?メモ帳にコピペしてみて吹きました
書き直そうと思ってあげずにいたんですが、まぁ書き直さないかなと思ってコピペしてしまいました。また気が向いたら書きたいですね。
そんで更新じゃないんですが告知です!サイトTOPをご覧いただいたらわかっていただけるかと思うのですが、マサポケさんで出されるポケスコベスト本に私の作品を掲載していただけることになりました
私の文が本になるのは実は二回目です。一回目はポケ徹での同人誌で、3年前くらいになるのかなぁ知っていただいている方がいらっしゃったら相当長い付き合いですね
今回、トップに書いてるとおりこれ北埜名義でもなくとらと名義でもなく、『北埜とら』→『北と』→『ほくと』→『hokuto』名義で、いわゆる仮面出場でたしか5位くらいだった作品なんですが
なんで仮面だったかって、一年前くらいの作品でこのブログにも今までずっと報告してなかったんですが、「生まれゆく君へ」はものごっつ気に入らなかった作品なんですよね(そんなこと掲載していただく身で言うなって話なんですがまぁブログだし)
あんまりにも気に入らなさすぎて3人くらいの人にしか正体話さなかったくらい気に入らなかった作品で、そもそもそんなもん投稿するなよって話になるんですがまぁ書いたし……って感じで投稿したらこういう結果になってしまいまして、なんというかその
今回こういう機会をいただいて、この作品となんとなく向き合うことができたような、ちょっと当時の自分を認められることができたような、そんな気がします 本を手に取るんが楽しみです。
うだうだいうとりますが他の方の作品ガチでものすっごいのだらけなのでよろしくおねがいしますね!強調!ほかの作品が!!!
短編企画の文庫化ということで作品はネット上でも読めるんですが、大幅改稿されている作品がいくつかあるので、うむ 生まれゆく君へがどの程度改稿されているのかというと文字数若干減っています。
そんなこんなで
せっかくなので追記に短編一本おとしときます。長いので注意。非ポケモン一次注意。文合せ冬の陣一位いただいた作品です
(ラジオDJ風に)それではお聞きください。『メロンパン・プラトニック』
メロンパンだ。そうだ、メロンパンがいい。メロンパンを買って帰ろう。
そんなこと思い始めると、全部がブリキの安いオモチャになって、マイコにはどうでもよくなった。社会や算数の勉強なんて、ちっとも惹かれなくなった。今日は帰り道に、ご近所の飼い犬のマルを撫でて帰ろうとときめいていた、そのことも頭から抜けてしまった。ひとつのことに夢中になりだすと、心が火を噴くミサイルになって止まらなくなる、マイコにはそういうところがある。マイちゃんはちょっとだけ変ね、周りが見えなくなっちゃうのね、保健室の先生はそんなふうに言った。担任の小柴先生は四年の一学期の終わり、マイコさんは独特の世界観を持っている、そんなふうに通信簿に書いた。独特の世界観。その言い回しは、少しマイコのお気に召した。
それが一過性のものであるならば、マイコだってこんなに苦労はしていない。メロンパンいいな、メロンパン食べよう、今日の二時間目の国語の時間に突如そのことが頭に浮かんでから、帰りの会の一礼を済ませ、皆が動物園の猿のようになって教室を飛び出すその時まで、マイコはメロンパンのことだけ一途に考え続けていた。音楽の時間にはメロディーという歌詞をメロンと間違えて歌ったし、社会の時間にはノートをメロンパンらしきもののイラストで埋めつくしてしまった。休憩時間にもぼうっとして、メロンパンの絵には懲りたので、リアルタッチのメロンのイラストを大きくひとつ机に描いた。掃除時間、その机を動かした男子生徒がエッという顔をしていたのになんだか得意になって、マイコは窓の外に手をかざして、二つの黒板消しをいつもより多めに打ち鳴らした。ぼふん。ぼふん。白が多めのチョークの粉は、マイコの白い息と一緒に風に乗って、グラウンドへと流れていった。それと一緒にマイコも飛んでいきそうだった。目的地はそう、メロンパンのおいしいあのパン屋さんまで!
ちゃちゃっと掃除を終わらせて、トントン階段を降りて、下駄箱から運動靴を引っ張り出して。赤と白の上履きは、ランドセルの隙間の中へ。入れ替わりに筆箱を取って、そっと中身を確認する。そこに息を潜めていた、マイコのなけなしの百二十円。運が良かった。いつもはお金を持ち歩かないけれど、今日はスーパーの四個入りのドーナツを買うつもりで、貯金箱から抜いてきていたのだ。
誰にも見られないようにポケットに『なけなし』をしまって、そこからのマイコは誰より素早い。ランドセルをきちんと閉めるのも億劫でそのまま肩にひっかけると、後ろ手にひねり錠をカチャカチャやりながら歩いて、それ以上もたもたできずに走り出す。正門を越えて、上級生や下級生を追い抜いて。いざ行かん、メロンパンのいるところ!
目指すパン屋さんは学校から家の前を素通りして、しばらく行った所にある。比較的新しいパン屋さんで、隣町から越してきた女の人が営んでいるそうだ。こういうときのお母さんの情報網は凄くて、旦那さんと小学生の息子さんがいるそうよ、そろそろ追って引っ越してくるそうよ、というところまでマイコは聞かされて知っている。お母さんがそこで先日買ってきた一個百二十円のメロンパンは、サクッとしてて、あまぁくて、思わず弟のシュンと二人でうーんっと唸ってしまうほどのおいしさだった。シュンは前歯でちびちび削るリスみたいな食べ方をするから、いつもみたく胸元を汚して、お母さんに怒られていた。なぜだかマイコも巻き添えをくらった。けれど、それを差し引いても余りある、まっことおいしいメロンパンなのだ。
メロンパン、おいしいおいしいメロンパン! 一歩一歩弾むにつれて、マイコのお口はメロンパンのためのお口になっていく。こっそりお菓子を持っていってご近所のマルに見せてやると、マルは涎をだらだら垂らして尻尾を振って『待て』をする、マイコだってもしマルチーズなら、今そんな感じになってるだろう。いや、『待て』でさえきっとままならない。そのくらい受け入れ準備は万端だ。万端すぎて、生唾が出る。ごくり。
あぁ、どうしてこんなにお腹がすいているのかしら。今日だってきっと給食を、いつもと同じに食べたのに。そういえば、今日の給食はなんだったろう。食べたものを思い出せなくなることは、マイコくらいの歳でだって、よくある。マイコなんか、昨晩のご飯なんていつも思い出せない。でもそれは別に構わない、そんなこと思い出せなくったって何も問題は起こらないからだ。オネーチャンそういうのオバアチャンみたい、シュンがそう言ってばかにしてくるのは、ちょっと腹立たしいけれど。
こういうことを考えてると、マイコはいつだかテレビで見た、記憶の引き出しの話を思い出す。頭の中には大きな大きな棚があって、記憶っていうのはある事ごとに、その棚の別々の引き出しにしまっておくのだそうだ。その引き出しの数があんまりにも多いから、何度も何度も触っている引き出しの場所は覚えるけれど、あんまり使わない引き出しの場所はそのうちにすっかり忘れて、だから思い出せなくなってしまう。何月何日の晩のおかず、なんて記憶はよっぽどのことがない限り触ることがないから、きっと奥の方の引き出しに入れっぱなしにするんだろう。けれど、さっき食べた給食の引き出しの場所は、しまいこんだばっかりだから思い出せたっておかしくない。どこにいれたんだっけ。さっき引き出して入れてから、一度も触っていないお昼ご飯の引き出しが、棚のどこかにあるはずなのに。
膨大な量の引き出しが、マイコの前にそびえ立っている。あてずっぽうだ、その一つを引いてみる。ごとり。コーンスープの香りがする……あぁ、これは今朝のコーンスープだ。コーンスープと、プチトマト、ちくわの中に棒のチーズが入ったやつと、晩の残りのおみそ汁。今朝はお母さんがいなかったから、マイコとシュンとの二人分を、マイコ一人で用意した……
はた、とマイコは立ち止まった。気がつけば、家のマンションの前にいた。
高い高いマンションは、どこか記憶の引き出しを思わせた。
凍え乾燥した冬の空の下を走ってきたから悪かったのか、砂漠の中に呑まれるみたいに、唾が引いて喉が渇いた。その砂が胸の奥に落ち込んで、体が重たくなる。明確だった頭のビジョンが蜃気楼みたく霞んでいった。動かぬ灰色のマンションを見上げて、マイコは――なぜだか、このままエントランスをくぐって、エレベーターに乗って、七階の家まで帰った方がいい気がしてきた。ポケットの中の百二十円をそこの自販機に飲み込ませて、ホット缶のコーンスープでも買って、シュンの待つ我が家へと急いだ方がいいような。きんきんに冷えた足をこたつのなかに突っ込んで、夕方のニュースでも見た方がいい。そうだ。その方がいいに決まっている。
マイコは歩いて青い自販機の前に立つと、ポケットから百二十円を取り出した。ちゃりん、ちゃりん。『なけなし』を飲み込んだ自販機がヴンヴンと呻り始める。ちゃりん。いつもなら持ち歩かないはずの百二十円。あぁ、どうしてだろう。どうして今日に限って、ドーナツを買って帰ろうなんて贅沢をしようと思ったんだっけ。指を伸ばす、コーンスープの赤く灯った、楕円形のボタンをなぞる。なんでだろう。分からない。分からないけど、何か――
お釣りのレバーを押して戻して吐き出したお金を取り返して、マイコは走り出した。学校もマンションも背に走り出した。喉が詰まって、なのに白い息がほうほう漏れて、足の先がじんじん痺れる。そう思い始めると、寒い。マフラーも手袋もランドセルの中だろうか。突っ込んだ上履きに押しやられて、底で小さくなっているのだろうか。もしかしたら教室の机の中かもしれない、そうだとしたら最悪だ。
あぁ。走っていくマイコを、すれ違った人が変な目で見た。あぁ。優柔不断だ。最悪だ。何が入ってるか知れない引き出しなんて開けなければよかった。メロンパン、サクサクのメロンパンの中のふわふわの幸せのことだけを、じっと考えていればよかった。
新しいパン屋さんは営業していたけれど、別段良い匂いはしなかった。電信柱の上から、一羽のカラスがじっと見ていた。戸を引いてお店に入ると、生ぬるい空気がマイコを包んだ。外から見たのと違わない、こぢんまりした狭いお店だ。カウンターには誰もいない、ごめんください、マイコは小さな声で言ってみた。誰も出てこない。レジの横には、黒いネコの置物が、黄色い目を光らせてマイコのほうを窺っている。ごめんくださぁい! 叫ぶと、はいはぁい、と返事が聞こえた。女の人の声じゃない。
お金を包んだ拳を固く握りしめて、お店の中を見渡した。サンドイッチ。クロワッサン。ひよこを模した丸いパン。その空間で、マイコは『異物』みたいだった。マイコという存在だけが、てんで場違いのように思えた。早く帰りたくって足がうずく。レジ皿に百二十円置いて、メロンパンだけ手に持って、さっさと出ていってもいいのだろうか。振り返ると、お目当てのメロンパンは、ガラスを挟んで道路に面したショーケースに、規則正しく並んでいた。メロンパンだけじゃなく、どのパンも整然と置いてあった。まるで、はみだしものに用はない、とでも言うように。
どくん、どくんと、心臓は妙な音を立てていた。メロンパンに近付くと、その奥のガラスの向こうに、さっと黒い影がやってきた。カラスだ。足を一歩引く。カラスはガァガァ鳴いて、見た感じよりずっと大きな、真っ黒な翼を震わせて、爪と、鋭いくちばしで、ぎらぎら光る目で、ガラスをへだてたマイコに襲いかかろうとした、マイコは驚いて、キャアッ、と目を瞑って、身を縮めた次の瞬間、
「――大丈夫?」
そんな声が降ってきて、ふわりと何かに包まれて、マイコは目を開けた。
目の前に、知らない人がいた。マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに、タキシードをきちっと着こなしていて、黒い蝶ネクタイをつけている。ハットまでかっこよく被りこなしている。そして、背中から黒い翼が生えている。
いつのまにかうずくまっていたらしいマイコの前でその翼を折りたたむと、タキシードの男の子はひどく悲しそうな顔をした。
「すまなかった。仲間がひどいことをしたんだ」
あまりにもぼうっとしすぎて、その意味がよく理解できず、とにかく謝られているということだけ把握して、なんとかマイコは首を振った。ぷるぷるとばね付きの人形みたいに頭を揺らしているマイコに、男の子はやっぱり悲しそうな顔をした。
「少し動揺しているみたいだね。うちで休んでいくといい」
「う、う?」
マイコはそれしか言えず、けれどその返事を男の子は好意的に受け取ったようで、へたっているマイコの手首を取ると、ぐいっと引き上げた。
立たされて、手を引かれて、マイコは男の子と歩き始めた。
静かで可愛らしい町並みを二人はしばらく歩いた。不揃いのデザインが施された茶色の石畳の歩道に沿って、オレンジや黄色を基調にした、おもちゃみたいな家がぽつぽつと並んでいる。つるつるの屋根から伸びた煙突が、モクモクと白い煙を吐いている。あれ、なんだか『へんてこ』だ。マイコの住んでいるあたりに、こんな通りはなかったはず。ここはどこだろう。パン屋さんは、どこへ行ったんだろう。ようよう落ち着いてきて隣を見ると、真っ黒の翼は町にちょっとだけ浮いていた。目があって、彼はニコリと返してきた。
「君の名前は?」
「えっと、木村マイコ」
「マイコちゃんか。なるほど」
「あなたは――カラス?」
自分でもおかしいなと思ったその問いに、彼はやっぱりニコリと笑った。
「それ以外の何かに見える?」
マイコと彼――カラスとは、てくてくてくと、『へんてこタウン』を歩いていく。
温かい手のひらに連れられて最初はどきどきしていたけれど、そのどきどきがびくびくのどきどきからわくわくのどきどきへと変わるまで、それほど時間はいらなかった。
だってここは、マイコが毎日朝昼晩、思い描いているような世界なのだ。星は赤色、雲は青、太陽と月が一緒に踊っているピンク色の空の中を、一隻の宇宙船が金平糖を吐きながら渡っていく。茶色の石畳の上を、金色の魚が泳いでいる。こんもり茂った並木からは、ドーナツの木の実が下がっている。横断歩道の白線はコンベアみたく流れて、向こう岸までマイコたちを連れて行ってくれる。こんなのまるで妄想の中。あんまりにも嬉しくって、首やら目やらをぶんぶん振って、マイコはずんずん歩いていく。カラスもずんずんついてくる。
ライオンのえりまきをしたトラ猫が、ワンワン言いながら逃げていく。薬局前のカエルの置物が、素敵な歌声を響かせている。ちょっと人のおうちの窓を覗くと、真っ白と真っ黒の大きな大きなドラゴンたちが、こたつに潜って昼寝している。そんなことしたって、こらこら、とたしなめてくる大人たちはだぁれもいない。ふふぅ、と笑いがこみあげて両手で口を押さえていると、目の前に川が現れた。橋も小舟もない。川面を覗きこんだ瞬間、ふわっと立ち込めた匂いには、思わず声を上げてしまった。
「コーンスープだ! おいしそう!」
コーンスープだねぇ、とカラスも笑った――そうなのだ、濃い黄色の川の中に、つぶつぶコーンが浮かんでいるのだ。どろどろ流れる水面には、自分の顔も映らない。すごいすごい、マイコは思わず手を叩いた。これならお湯を沸かさずとも、毎日毎日飲み放題だ。でも、川の中に入ったらおいしくっておいしくって、ついつい溺れて死んじゃうかも。それを想像したら、やっぱり笑いが漏れた。ぼくの家はこの向こうだ、カラスは得意そうに言った。
「ねぇカラス、分かったよ」
「ほう、何が分かった?」
「これは夢。わたしは今、夢の中であなたといるの」
「なるほど。でもどうして?」
こんなへんちくりんな話をしているときに、どうして、なんて聞き返されたことなんて今まで無くて、マイコはちょっと熱くなってしまう。
「だって、コーンスープの川なんて夢の中にはありえても、現実にはありえないもん。現実ではね、水の色は透明。汚れてても緑。泳いでいるのはコーンじゃなくて魚だもの。それに――」
ひゃあっとマイコは悲鳴を上げた。急にマイコを、お姫様だっこの形にカラスは抱え込んで――黒い翼を広げると、軽々空へ飛び立ったのだ。
はためきの音、流れる景色、ひたひた頬に当たる風。カラスの胸にぴったり頬をつけて、マイコはカラスの顔を見ていた。まっすぐ前を向いているカラスの黒々した瞳に、吸い込まれそうとマイコは思う。自分のかカラスのか分からない心臓の音が、どくどく耳に届いてくる。自分を守ってくれた彼。手を取り歩いてくれる彼。マイコの話を馬鹿にせず、真剣に聞こうとしてくれる彼。お姫様だっこに憧れるような、そんな年頃の女の子ではマイコはなかったけれど――すとんと着地して、カラスはマイコの顔を覗きこむと、それに? と続きを促してきた。
「それに、人間は空を飛ばないよ。そんなの童話の世界だけ」
聞いて、カラスはふっと微笑んだ。そういうちょっと大人びた顔が、さまになるような男の子だった。
もう一度手を取り合って、二人はコーンスープの川を背に歩きだす。
「どうしてそうだと言い切れる?」
「……どういうこと?」
「ない、ということを証明するのは、途方もなく難しいことだ。コーンスープが流れてる川をマイコが見たことがないからって、それが世界中どこを探してもないとは言い切れない。空を飛ぶ人を誰しも知らなかったからって、絶対に存在しないとは言えないだろう。世界の隅々までのことは、神様だって知らないんだから。ありえないと言うことは、どこまでいってもありえない」
ここがぼくの家、と彼が指し示した家の前で、じゃあ、とマイコは、温かい手を握り返した。
「魔法が使える人間も、もしかしたらいるかもしれない?」
カラスはそんなマイコの横で、右手を高く掲げると、パチン、と指を鳴らした。
触れてもいないドアの取っ手が、その瞬間くるりと回った。ススス、と手前にドアが開いた。中には誰もいない。カラスはマイコの背中を押して、招き入れるようにそこを潜った。
「ゼロであるとは、言い切れないね」
カラスはそう言って肩をすくめた。
へんてこタウンとは打って変わって、カラスの家は薄暗かった。でも、焼き立てパンみたいなお腹の底をくすぐる匂いが、玄関にまで充満していた。
ここからは土足禁止だよ、と止められたところで靴を脱ぐと、マイコはランドセルから学校の上履きを取り出した。足の甲のゴム部分に大きく『4の2』と書かれているのを見て、カラスは目を丸くする。
「マイコは四年生?」
「うん」
「へぇ、そうか! 年下かと思ってた。ほら、マイコは背が低いから」
そういうふうにからかわれるのは、別に嫌いではない。カラスがどこからかスリッパを取り出して来るのを、マイコは部屋の奥をそわそわ覗きこみながら待っていた。居間の方も、薄暗い。誰と住んでいるのだろうか。
「上履きなんて、よく持っていたね」
こちらへどうぞ、と案内される方へと、マイコは歩いていく。長い長い長い廊下。ゴム底の擦り切れたマイコの上履きは、ぺたぺたと音を立てる。古い色合いの床板が、踏むたびにキシキシ鳴いている。
「持って帰らないと無くなっちゃうんだもん。自分のことは、自分で守らなくちゃ。学校は毎日が戦争みたい」
「戦争。それは、大変だ」
神妙に呟いたカラスの横顔が、同じ間隔で並んでいるランプの明かりに浮き沈みする。
急に気持ちが沈んでいくとき、マイコはそれを止められない。さっきまで浮ついていた体が、心の底の、真っ暗な茂みの沼の中へ、ずぶずぶずぶと嵌まっていく。瞬きをすると、まぶたの裏に張り付いた、重くて硬くて冷たい校舎が、マイコの行く手に見え隠れする。
さっきまで握っていた隣の手のひらを、もう一度黙って取る。隣も握り返してくる。温かい。カラスの左手は、マイコの欲しい温かさを、きちんと理解しているみたいだ。
十二個目のランプの前を通ったとき、ふとマイコは首を回して、あっと声を上げた。
「カラス、怪我してる」
マイコの視線の方を気にして、カラスは畳んだ翼を震わせた。薄ら明かりに照らされたカラスの左翼が、赤黒い血を滲ませている。
どこで怪我したの、と問うても、どうってことないよ、とカラスは微笑むだけだった。どうってことないなんてこと、マイコにとってはあるはずない。それはだって見るからに、じくじく痛むに違いないのだ。夢みたいな世界にいるのに、カラスはそんな痛みをこらえて、マイコを抱えて飛んだというのか。手を引いて歩き出したカラスをしつこいくらいに問いただすと、困った顔でカラスはこれだけ言った。
「……ぼくも戦っているんだ」
カラスも戦っている。その答えは、不安を駆り立てるものでもあって、それと同じだけ、『戦っている』のがマイコだけではないのだと、そんな安心感も与えてくれた。
「わたし、ばんそうこう持ってる」
「そんなものくれるのかい。ぼくなんかに」
ランドセルのポケットに忍ばせていたばんそうこうは、傷には少し小さかった。どう貼ろうか考えあぐねて、斜めにそれを貼りつけた途端に、ばんそうこうは緑色の光になって、あっという間に弾けてしまった。するとカラスの怪我は、立ちどころに治ってしまったのだ。あたかもマイコが、魔法でも使ったかのように。
「ありがとう、マイコ」
名前を呼ばれるのはなんだか照れくさくて、マイコはちょっとうつむいてしまった。
ようやくたどり着いた部屋は広間で、奥にはカウンターとキッチンが見えた。落ち着いた照明のアンティークなお部屋の真ん中で、ヨーロピアンな椅子を示されて、ハーブティーでも入れるからそこに座っていてとカラスは言った。きょろきょろお部屋を見回しながら、マイコは大人しく待っていた。パンもお菓子も見当たらないけれど、優しい甘い素敵な香りが、お部屋いっぱいに広がっている。古いミシンの置物、ダイヤル式の黒電話。焦げ茶のイーゼルに立てられた女の人の絵。主張の控えめな観葉植物。落ち着いた色合いのキルトが、木調の壁に掛かってる。
そわそわするほどおしゃれな空間。けれども、マイコの夢見る『へんてこタウン』とは、どうにも趣きが違いすぎる。ここは本当に、わたしの夢の中? ――そのとき、ひとつ異彩を放っている大きなものが目に入って、マイコは完全に思考停止した。
それは、毎朝毎晩見かけていた、青い自動販売機。
――どぅん、と心臓が驚いたような音を立てた。立ち上がると、ぎこっと椅子が鳴った。一歩二歩歩くたびに、しゃれた家具や、小物やキッチンが、ミシンが電話が草がキルトが絵画の中の見慣れぬ女が、じっとマイコを見つめていた。薄暗い空間に、無機質な電灯を落とす、汚れた自動販売機。陳列された黄色い筒。唾を呑む。けれども喉がつっかえている。赤く灯った楕円のボタン。さっきなぞったそのボタン。もう一度そこに触れようと、マイコは吸い寄せられるように、甘い言葉に誘われるように、その赤色へと指を伸ばして――誰かがそっと、頭を撫でた。
「行ってみる?」
自販機の横、やはり長く伸びた廊下を指して、カラスは言った。マイコは浅く頷いた。
奥にはエレベーターがあって、二人はそれに乗り込んだ。
エレベーターには正常なボタンが無くて、『7』だけ置き忘れたみたいにひっついていた。ぐんぐん上昇する箱の中で、二人は黙っていた。チン、と開いた扉の向こうに、慣れたはずの景色が広がっていた。マイコはカラスの先を歩いた。
表札のかかっていない一室の前に二人は止まった。ランドセルのいつもの場所からいつもの鍵を取り出すと、その鍵穴にマイコはそいつを捻じ込んだ。
いつものようで、なんだか少し重く感じるドアを開いて、マイコは驚いた。――驚いたのに、なのにどこかで、そうだと分かっていたような気もした。
そこに、マイコの家はなかった。誰か別の住人の家でも、もちろんなかった。そこに待っていたのは、ただただ白い壁と、床と、高く高く高く聳える、大きな大きな『棚』であった。
それが記憶の引き出しであると、マイコにはすぐに分かった。だって自分のことなのだ。大きさも色も形もてんでばらばらの引き出しが、勝手に開いたり閉まったり、中身を吐き出したり吸い込んだりしている。収まりのつかなかったがらくたが、棚の足元に散らばっている。何重にも鉄のチェーンが巻きつけられて、南京錠の掛かったやつが、開けてほしい、開けてほしいと言わんばかりに、呻いて細かく震えている。そんなひどい引き出しでも、それでも、自分のことだから、そうだと分からないはずがない。
白い部屋に、黒い黒い影を落とす、マイコの巨大な記憶の引き出し。
シュン、どこ、マイコはそう叫んだ。自分の家のドアを開けたのだから、弟のシュンは部屋のどこかにいるはずなのだ。どうしようもなく嫌な予感がして、マイコは思わず部屋の中に駆け込んで、がらくたの類を跳ね除け始めた。シュン、出てきて、言いながらかき分ける、まだぴかぴかのランドセル、真っ白な上履き、リコーダー。頭の上に降ってきた、あの日の黒板消し。リビングの花瓶の萎れた花。空いたビールの缶……。
引き出しの裏から飛び出してきた何かを見て、マイコは弟を呼ぶのをやめた。チョロチョロと走ってきたのは、見覚えのない子リスだった。子リスはマイコの足元に立つと、膨らんだ片頬を両手で押して、器用に何かを吐き出した。そして、座り込み、伸ばしたマイコの手の上に、唾液に濡れたそれを渡した。
それは、おもちゃのような小さな鍵だった。
「……これ、なに? これはいらないよ」
戸惑うマイコの黒い瞳を、子リスの相貌も見つめていた。まっすぐ視線をぶつけてくる子リスに、マイコは気持ちが負けそうになる。ビーズのような子リスの目玉が、小さなマイコを映している。リスはすくっと立ち上がった。そして言った。
「おくびょうもの」
――世界が崩れ出した。歪みヒビ入った床に立っていられなくなると、後ろからカラスがマイコを抱き上げた。傾いた棚から滑り出した無数の引き出しが崩落し、二人と子リスに襲い掛かった。カラスは翼をたたみ、マイコを抱えたまま急降下していく。対して子リスは、突然長い翼を広げ、崩壊する世界を高く飛び立っていくではないか。
「シュン待って! シュン!」
呼べど、子リスは振り返ることを知らない。
すとんと着地して、するとそこはさっきの椅子の横だった。カラスの家の家具と小物は、長すぎる地震みたいな震動にぐらぐら揺れていた。靴を履いて、早く、そうカラスが急かすのにマイコは慌てて踵を返し、元来た廊下を今度は一人駆け抜けた。狂ったランプの点滅する長い廊下を、無我夢中で駆け抜けた。暗闇の中で上履きを脱ぎ捨て、なんとか運動靴に履き替えたところで、追いかけてきたカラスに腕を掴まれ二人は玄関を飛び出した。
「まだ上履きがっ」
「そんなのは後!」
驚いたことに『へんてこタウン』は、どこからか湧き上がってきた黄色い流砂に今にも飲み込まれようとしていた。二人の駆けていた通りの石畳も、じきに砂に覆われた。足がとられて走りづらい。カラスは右手を口元へやって、ぴゅうっ、と指笛を吹いた。途端、倒れかけていた木々の陰から、白い塊が飛び出してきた。
「マル!」
見覚えのある、綿あめみたいなマルチーズにマイコは叫んで――それからマイコはカラスの手で、その背中に乗せられた。マイコがしがみついた、マイコの知っている五倍くらいの大きさのマルに、マイコを頼む、カラスはそう声を掛けた。
翼を煽ってカラスは空へ飛び立った。その背を追って、おもちゃの家が沈んでいく砂漠の上を、マルは風のように疾走した。
淡いピンク色だった空が、だんだん赤らんでいっている。星も雲も金平糖を吐く宇宙船もそこにはない。ただ、カラスの目指すところ、赤らんだ空の一番赤い場所に、真っ黒い巨大な影が暴れている。黄色の目を光らせている。マイコが怖気づいたところで、黒い怪物は泡のような砲丸のようなものをカラスへと放った。
「カラス危ない!」
マイコの声に応えるように、カラスは翼を振るった。両翼が生み出した黒い衝撃波が、敵の攻撃を打ち崩していく。崩されたその砂塵がマイコとマルにも襲い掛かる。急にうっと気分が悪くなって、マイコはマルの首元に顔を埋める。ふいに振り返ったカラスがマイコの異常に顔色を変えた瞬間、鋭い砲丸攻撃がその翼にぶち当たった。
カラスの声にマイコが顔を上げた時には、もう遅かった。カラスはぐるぐると回りながら、砂漠へと無防備に急落していく。その光景にぞっとしたばかりに、怪物から放たれたものがマイコとマルへと差し迫っていたことに一瞬気づくのが遅れてしまった。マイコは背に伏せ、マルは必死にそれを避けようとしたが、無駄だった。流れてきた黒い泡のひとつが、マイコの体を包み込んだ。
『――マイちゃんはちょっとだけ変ね』
聞こえてきたのは、声だった。保健室の、先生の声だ。あの鼻にかかった声、教室に行けないマイコを見た、呆れたようなその眼差し。
あぁ、なんだ。息が苦しい。次々砲撃がマイコを襲う。忘れかけてた音と色とが襲ってくる。落ちゆくカラスを臨む視界が、暗く明るく塗り変わっていく。
『――誰ですか、木村さんの上履きを隠したのは』
『――自分でやったんじゃねぇのかよ』
小柴先生の声と、終わらない帰りの会に苛立った、クラスメイトの囁く声。
マルのキャンキャン吠える声。力ないカラスの翼が近づいてくる。傷まみれの翼。ばんそうこうは足りるだろうか。間に合うだろうか、せめて地面にぶつかる前に。
――とぼとぼと歩く帰り道。追い越していく、無数のランドセル。連れ立って綺麗な一軒家に入っていく、四年の同級生たち。
精肉店で買って帰る、ちょっと冷めたコロッケ。あそこのお宅大変なのよ、リコンしたんですって、お姉ちゃんの方も気を病んだというか、少しおかしくなったみたいで――耳を塞いでも流れ込んでくるご近所さんの噂話。
マンションの七階のドアを開ける。以前より、電話していることが多くなったお母さん。受話器を置いて、たまにこんなことを言うお母さん。
『魔法が使えたらよかったのにね、幸せな頃に戻れる魔法が』
夕暮れ、薄暗いリビングで、白く光るテレビ画面を、頬杖をついて眺めるシュン。
『オネーチャン、学校、たのしい?』
――――全部、全部、引き出しの奥底に無理に押し込んだ、目を背けていた記憶たち。
「カラス!」
滑り込んだマルの背中に、どさっ、とカラスは落下した。左の翼が歪んでいる。マイコが触れるだけで、うっ、とカラスは呻き声をあげる。目の前に、記憶を放つ怪物は、いまだに黒く佇んでいる。マイコはカラスの手を握る。温かい。欲しかった温かみを、カラスの手はマイコにくれる。なのに、もう、どうしていいのか分からない。
「カラス、いつも一人で戦っていたの?」
「ぼくは都合のいい存在であればよかった」
カラスはそう唸った。そんな声をかき消すようにマイコは続けた。
「カラスはわたしのために、わたしが夢ばっかり見て、妄想ばっかりして、いろんなことから逃げてるときに、ずっと戦ってくれていたの?」
「ぼくは君の、君にとっての、都合のいい存在でなければならなかった」
そんなのってない、そう言ってマイコはカラスの体を抱きしめる。受け止められない思い出に向かって、自分の代わりに傷ついていた、黒い翼を抱きしめる。目から涙がはらはらこぼれる。こぼれて、黒塗りの翼に浸み込んでいく。
「だってわたしのことなんだよ!」
――世界が明るみを増していく。
砂が消えていく。『へんてこ』なものたちも消えていく。赤かった、ピンクだったマイコの空が、真っ白な光を帯びていく。マイコとマルとマイコのカラスと、マイコの記憶の怪物だけが、マイコの視界を描いていく。
自らの中に受け入れていく記憶が、後ろ盾になっていく。剣になり、弓になり、鋭い槍になっていく。力が湧き上がってくる。汗ばむほどに熱い手が、握り返してくる。カラスは翼を広げると、お決まりの『ニコリ』をマイコに向ける。
「……君は加湿器みたいな人だ」
カラスの紡ぐ音が、世界のそれだけになっていく。
「君の声は、ぼくの瞳に潤いをくれる」
「君の言葉は、ぼくの翼をつややかにする」
「君の涙は――ぼくに、飛び立つ力をくれる!」
強くはばたき、カラスはマルの背を発った。カラスの翼の巻き起こす旋風が、マイコの気持ちを扇動し、怪物へ向かっていくマルの全身の躍動が、マイコの心を高ぶらせ。消えていくコーンスープの川の、黄色く浮かぶコーンの上を、蹴りつけ、乗り越え、飛び越えて、彼女らは力いっぱい猛進していく。すっと眼前をよぎったものは、あのときの翼付きの子リスだった。子リスにかける上手な言葉が見つからなくて、マイコは奥歯を噛みしめる。悔しくて、情けなくって、なのにびっくりするほどに、体が前を向いている。
子リスはマイコの肩に乗り、チチッと鳴いた。黒々した目が、マイコを映した。マイコは――その背に畳んだ白い翼を広げると、カラスのそれに習うように、マルの背中を飛び立った。
風が髪を薙ぎ頬を打つ。頭の中が明るくクリアになっていく。急速に近づいてくる真っ黒い影は、もはや怪物の形ではない。マイコの一部になるはずのもの。目を背け、悲しい思いをさせていたもの。マイコが、手を伸ばすべきもの。
カラスの左手が、マイコの右手を掴んだ。きつくそれらを握り合って、二人は飛翔した。高く、高く、高く。そこに黒く広がっている、太陽みたいな輝きの中へ。目を合わせ、呼吸を合わせて、二人は握った手と手を伸ばす。伸ばし、怖くない、怖くない、心の中で呪文のように唱えながら、黒い渦の真ん中へと、二人の腕が吸い込まれていく――
そのあと、甘い香りがして。
空から雪か花びらみたいに、メロンパンが降ってきた。
降り積もる飴玉みたいなメロンパンの中を、マイコはさくさくかき分けた。その次は、へたっぴの積み木みたいなメロンパントンネルの中を、腰を屈めてくぐっていく。唾は出ず、不思議とお腹も鳴らなかったけれど、サクサクの中のふわふわの幸せが、そのあたりには詰まっていた。
その先にあったものは、なんてことはない、小さな小さな宝箱だった。
マイコは少し拍子抜けしてカラスを見た。世界はもう完全に真っ白になっていて、マイコの目には、彼と、その宝箱しか映らない。マイコがぼうっとしているので、カラスはその箱を手に取って、マイコへと手渡した。
「マイコはもう、持ってるよ? その宝箱の鍵を」
そう言われて、握りしめていたこぶしをひらくと、子リスにもらったおもちゃの鍵が、ちょんと手のひらに乗っていた。
鍵穴に差し込むと、おもちゃの鍵は容易に回った。かちっ、と音はしたけれど、それを開くのはなんだか怖くて、マイコはそっと視線を移す。君のことだろう、とカラスは笑った。その柔らかい笑い方に、マイコもちょっと気が弛んだ。
少しずつ開けようと思って手をかけると、わずかの隙間が生まれた途端に、箱の中から、虹色の糸のような細い光が、するすると外へ流れ出した。
力が抜けていくように、マイコと、マイコをふんわり抱きしめたカラスとは、その光の帯を見ながらゆっくりゆっくり落ちていった。じんわり回りながら下へ、下へ流れていく二人の傍を、メロンパンがふわふわ舞っていた。温かくて、せつない気持ちで、鼓動は静かでも胸が苦しくなった。両手で口元を覆っても、目だけはマイコは、その光からそらさなかった。
光がそこに描いたのは、ちっちゃなマイコと、まだ赤ちゃんのシュンと、二人を愛おしそうに抱きしめた男の人が笑っている、一枚の古い写真だった。
降りしきるメロンパンの姿に隠れて、だんだんそれが遠ざかっていく。変、とマイコは小さく笑う。だって、嬉しいのに、こんなにも涙がでる。さっきだって、本当はそうだったのだ。自分のために戦っていたカラスのことが悲しくて、苦しくて、なのにすぅごく温かくて。
「帰らなきゃ。思い出したの」
「ほう。聞かせてごらん」
マイコは頷いて、目を閉じた。涙の滴がほっぺをつぅと伝って、顎の先からぽたぽた落ちた。
「今日ね、お父さんが帰ってくるの。お父さんに会うの、本当に、本当に久しぶりで……学校のこととか、うまく話せるか、怖いんだけど……」
ほっぺたをカラスの指が拭って、ふふっとマイコは笑顔をこぼす。
「メロンパンをね、買って帰るんだ。お小遣いあんまりないから、一個しか買えないんだけど、とってもおいしいメロンパンでね。よっつにちぎって、お父さんとお母さんと、シュンとわたし、みんなで分けて食べるの。……怖いけど、楽しみ」
それは楽しみだ、カラスの優しい声が、頭の上から注いでくる。
目を開け、差し出された透明なガラス玉を、マイコは受け取った。きっとそれは、こぼした涙の結晶だ。手のひらに乗せていると、ガラス玉は、すうっと薄らんでマイコの胸へと吸い込まれていった。
「今日のことは、引き出しなんかじゃなく、宝箱にしまっておいて」
ささやくようなカラスの言葉に、うん、とマイコは頷いた。
腕が離れ、手のひらが離れ、名残惜しげに指先が離れて、さなぎから旅立つ蝶のように、マイコはカラスから遠ざかっていく。また会える、と問う声に、カラスはしっかり頷いた。
「もちろん。マイコが望むなら、いつだってぼくらはまた会えるさ」
その刹那、花吹雪のようにメロンパンが舞いおどって、カラスの姿は見えなくなった。
*
ひんやりした空気にぶるっと体を震わせて、はたとマイコは目を覚ました。
きちんと閉めたはずの入り口のドアが全開になって、そこから外気がびゅうびゅう流れ込んでいる。やめろ、あっちいけ、と叫ぶ男の子の声が聞こえて、なんだなんだ、とマイコは座り込んだまま首を伸ばした。陳列棚の影に隠れて、お店の目の前で竹ぼうきを振り回していたのは、マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに――タキシードを着ていない。黒い蝶ネクタイもつけていない。ハットまでかっこよく被りこなしてなんていない。そして、背中から黒い翼が生えている、なんてことはもちろんない。
けれども、そっくりだ。マイコはこれでもかってほど目を大きく丸くする。そこで、バタバタ暴れているカラスを追い払おうとしているのは、うちの学校の体操服を着た、『カラス』そっくりの男の子だった。
さっきマイコを驚かせたカラスがようやく去っていってから、ふーっと息をつきながら男の子は振り返った。むすっとした顔も、あ、いやえーっとこの体操服はさたまたまちょっと試しに着てて、なんて言い訳する立ち振る舞いも、ちっとも『カラス』ではないけれど。顔も背丈も、写したみたいにそっくりだ。マイコはぱちくり瞬きをしながら、えっと、と小さく言葉を落とした。
「……カラス?」
「え? あ、あー……友達なんだ、あいつ。隣町に住んでたのに、おれが引っ越すのにわざわざついてきたみたいなんだよ。……変だろ、カラスが友達なんて」
あぁ、声まで、あまりにもそっくり。――狭いお店の真ん中にマイコがいつまでもへたりこんでいるので、男の子は照れたようにぼりぼり頭を掻いた。
「何の用? パン買いに来たんじゃないの?」
でもぶっきらぼうな喋り方は、全然『カラス』じゃない――そこまで考えたところで、やっとマイコは現実世界に戻ってきた。正しくは、戻ってきてる、と実感した。そうだ、ここはメロンパンのパン屋さんだ。メロンパンを買うために、ここまで走ってきたんだった。
「め、メロンパン……」
それだけなんとか声にして、わたわたとポケットに手を突っ込んで、マイコは百二十円を男の子に手渡した。男の子はそれをしげしげ眺めて、もう片方の手でまた頭をぼりぼり掻いた。
「ごめん、百五十円なんだけど」
「え、うそ」
「うそじゃない。悪いけど、今日から一個百五十円。かあさん、おれが知らない間にめちゃくちゃな値段つけるから」
だからあと三十円、と男の子は手を出した。ぼっと恥ずかしさがこみ上げて、マイコは耳まで真っ赤になった。なんだか居ても経ってもいられなくなって、やっぱいい、と首を振ると、ほとんど泣きっ面になりながら開きっぱなしのドアをくぐって駆け出した。
外は相変わらず寒くて、でも体は芯までぽっぽしている。足がもつれて、ランドセルのふたもぼんぼん鳴ってスピードが出ない。おい、と男の子の声がした。無視を決め込んでマイコは走ろうとした。
「おい! 上履き忘れてる!」
けれど、そこまで言われると、やっぱり立ち止まらざるを得なかった。
お店の玄関の前で彼が高く掲げているのは、マイコの古臭いゴム底擦り切れ上履きである。いつの間にランドセルから飛び出したのか。もう、恥ずかしい。恥ずかしいったらありゃしない。
「返してよ!」
別に取られた訳でもないのにそう叫んで、マイコはそこまで駆け戻った。男の子は上履きを高く掲げ、なかなか下ろそうとしない。手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねるマイコの反応を、楽しんでいるとしか思えない。
「なに、お前、四年なのな? チビだから年下かと思ったわ」
足の甲のゴム部分に書いてある『4の2』を見ながら、男の子は嬉しそうな顔で言った。いじわるな奴だ。一端しゃがみ、特大の不意打ちジャンプをして、マイコはそいつから上履きを取り返してやった。
「あ、お、おい」
急に威勢が悪くなって、男の子はまたマイコへ呼びかける。ふんだ、もう知らない、二度と振り返ってやるもんか、マイコはそんな気持ちで通りをずんずん歩いていく。あ、あ、あのさぁ。男の子の声は、なんだか気恥ずかしさをはらんでいる。
「おれも四年二組なんだけど……明日から」
さっきの決意はどこへやら、マイコは思わず振り返ってしまった。
もう一度、まじまじ眺めても。カラスそっくりと言えど、男の子は学校では見覚えのない顔である。クラスメイトどころか、学年にだってこんな顔知らない。へ、とマイコは気の抜けた声を出した。それから、あ、と思い当たるのは、お母さんの噂話。確か、小学生の息子さんが近々引っ越して来るとか、どうとか。
男の子は見ている方がこっぱずかしくなるようなうろたえた表情で、今度は両手で頭を掻いた。
「だからその……あのさ。算数とか社会とかどこまで進んでるか、よかったら教えてくんない? ……何ならまけてやるからさ、メロンパン」
ぼうっとして、それでもマイコは頷いていた。
電信柱の上から二人を眺めていた影は、ひとつ翼をひらめかせると、夢の国へと消えていった。
しょーせつってカテつくっとこっかな
サイト更新してきましたーリンク整理しまくりましたなんかどれだけひきこもってるか分かって心痛んでます い、いいもん嫌われても忘れられてもしょうがない……!(なんてこった
TOP下ポケ徹さんの横に文字リンクおいてるのがこないだからわぁわぁゆうてる企画のPOKENOVELさんですーお世話になってます 素敵サイトなのでどうぞ
オニスズメUPってきましたどうぞ。
ついでにワンスモもこっち上げときます。サイトUPはおいおい考えます。
君と僕との二年間
***
お粗末さまでした。
本当にあった学生生活シリーズ第二弾(!?)第一弾は二年前くらいで覚えてる人いたら普通に神 メンドーなのでもってきませんが加齢臭のやつです
中学のときの英会話のテスト(実際に受けたのは成績入らないよって言われて受けたんですけど 書いてる途中まで成績入らない設定だったんですけど)と、英検三級のしょうもない実技試験を組み合わせてつくりました。チェアの問題はそのまま当時の悔しい私です。そんなにワンスモア使ってなかったけどw
どーでしょうね。正直企画作品としてはそれほど間違ってはないと思うんですけど(
企画っていう枠を外したときにもうどうしようもない気がしてなりません。だから他もっていけないんですけど。
どうしようかねぇ。
そういえばこんなに長い一次かいたん初めてだわ。
あぁ嘘だひきものがあった。こんなに長い一次短編かいたの初めて。
ひきものって一次って意識全然ないんだよな。
サイト更新してきましたーリンク整理しまくりましたなんかどれだけひきこもってるか分かって心痛んでます い、いいもん嫌われても忘れられてもしょうがない……!(なんてこった
TOP下ポケ徹さんの横に文字リンクおいてるのがこないだからわぁわぁゆうてる企画のPOKENOVELさんですーお世話になってます 素敵サイトなのでどうぞ
オニスズメUPってきましたどうぞ。
ついでにワンスモもこっち上げときます。サイトUPはおいおい考えます。
君と僕との二年間
インイングリッシュ、僕が一番好きな言葉は『ワンスモアプリーズ』だ。
何が好きって、その便利なところである。そう言うと安っぽいというか、なんだか白々しい感じがするけれど、僕はとかくこのフレーズが大好きだ。ワンスモアプリーズ。その響きが、僕には時に魔法の呪文にさえ思えるのである。ワンスモアプリーズ。
僕と英語との出会いは中学一年の時だと言えるであろう。西洋かぶれがDNAレベルで染みわたってしまった今日のニッポン、ひとたび街に繰り出せば横文字の雨あられに襲われるご時世であるからして、もちろん僕だって胎児の頃から英語のことは知っている。なんともなくカッコイイものであると、幼児の頃には気付いていたに違いない(これは僕が神童だったと言いたいのではなくて、近代現代の普通の子なら、たいがい誰もがそうであろう)。小学生の頃には絵を描くのに、とりわけマンガの主人公の服をデザインするのに、アルファベットを適当に並べて『ピブドゥングス!』等々謎の単語を創作したりしていた。当時の僕は特に『R』がお気に入りで、まぁそんな話はいいや。とにかく僕は中一の春、始めて本物のそれらと触れあうこととなったのである。ザッツアイアムゆとり世代、揶揄したいならすればいい。
ここまで来れば気付いていただけるかもしれないが、僕は英語が苦手である。勉強科目としての話ではあるが、苦手というか嫌いである。嫌いというか大嫌いだ。僕の勉強嫌いの全ては英語に起因していると言っても過言ではない。まず話すのが嫌いである。あの英語独特の発音を先生に強要されるところが最悪だ。習いたての頃、クラス全員でRの巻き舌の練習をしている光景など失笑モノだった。すぐに僕はRが嫌いになった。また、書くのや読むのも苦手というか、正直よく分かっていない。なぜ、「僕は英語が嫌いだ」と素直に言わずに「僕は嫌いだ英語が」だなんてめんどくさい順番で言葉を並べているのか、全く理解に苦しむ。先生は日本語よりも英語の方がうんと簡単なんだと力説するけど、どう考えても日本語の方が音も形も圧倒的に美しく分かりやすい。日本国の識字率がそれを表しているではないか。こんな教育が許されていいはずがない。世界基準がジャパニーズに合わせるべきだ。
当然聞くのも嫌いだ。だけども、僕がそれに対して他ほどの苦手意識を持たないのは、先に述べた魔法の言葉のおかげである。
一年の春、何回目の授業だったであろうか、きっと片手で足りるくらいだ。先生が渾身の最終奥義でも繰り出すかのような表情で配布した『授業で役立つ英語』と銘打たれたプリントの中に、ひょうひょうとしてそいつはいた。キャッチアコールドとか、アイハブアクエスチョンとか、そんなメンツと肩を並べて、そいつは右列の下から五番目で己の出番を待っていた。先生が順番に発音し、生徒にリピートアフターミーさせて、一つずつ解説を加えていく。出番はすぐにやってきた。
「ワンスモアプリーズ」先生。
「ワンスモアプリーズ」生徒のやる気あるやつ。
「もう一度お願いします。先生や友達の言ったことが聞き取れなかったときに使います」
その時、僕はその偉大さにちっとも気付かなかったと言ってもいいだろう。
それから僕が彼の力に気付かされるまで、それほど時間はかからなかった。先生が僕に何か尋ねる。僕は慌ててプリントを見る。
「わ、わん、すもあ、ぷりーず」
カタコトの英語。先生は笑顔を浮かべる。子供たちが未知なる外国語を使い始めるのが何とも嬉しいらしかった。もっと好きになってもらいたい、その一心で、先生は、今度はゆっくりはっきりと、同じ言葉を繰り返す。
ゆっくりはっきりと。絵本を読み聞かせるように、馬鹿にしてるのかと思わせるくらいに、ネイティブが顔をピクピク引きつらせるほどに、ゆっくりしっかりはっきりと。
そう、このフレーズの素晴らしさは、単に繰り返させるだけではなくて、その聞き取り難易度を著しく低下させるところにある。リスニングの楽なのは、リーディングよりも単語が簡単な傾向にあるからだろうけど、簡単な単語さえ普通には聞き取れない僕にとって、『ワンスモアプリーズ』はまさに天からの賜り物、授業で恥をかかないための救世主であった。定期テストなんていうのはできないと決まってるものだから、この際どうでもいい。
正直に言うと、僕はワンスモアプリーズについてそれほど詳しくない。恥ずかしながら綴りも書けない。『ワン・スモア』だか『ワンス・モア』だかさえ知らない。『もう一度』に『一』が入っていることを考えれば『ワン』と『スモア』なんだろうが、ならば二度目をお願いする時には『ツー・スモア』になるんだと思うと、それは何となく間違っているような気がしてしまう。でも、耳だけ働かせるリスニング、口だけ動かすスピーキングにおいて、綴れるか否かなど大した問題にはならないではないか。意味が分かればそれでいいのだ。そして、それっぽいならなおのこと良い。ワンスモアプリーズのそれっぽさはなかなかのものだ。全然聞き取れていなくても、『アイドントアンダースタンド』より全然分かっている風である。最後に疑問符をいれて、『ワンスモアプリーズ?』と語尾を上げる感じにすると、更にアメリカンでナイスだ。できる男みたいだ。惚れる。そのうち彼女もできる。
進級し二年になって、過去形がどうとかいう話になって、文法理解は困難を極めた。僕は日ごとに英語への嫌悪感を募らせていく。そんな中で、新しい先生が何気なく口にした言葉が、僕の心をぐわしと掴んだ。
先生が指名して、生徒の一人がもごもごと何か言う。先生が教卓から身を乗り出す。
「パードゥン?」
パードゥン? ぱーどぅん? Pa-Dwun?
僕どころか、言われたその子も、かわいいあの子も、クラスの大半がぽかんとした。
その時のショックは計り知れない。それはもう一つの魔法であった。それも、僕の覚えているそれよりも幾分端的で、数ランク強力な呪文である。僕は愕然とした。世界のすべてだと思っていたものはただのチンケな防壁で、それがみるみるうちに打ち崩されて、新たなるフィールドが彼方へ広がっていくように感じた。
ワンスモアプリーズ? ――もう一度お願いします。
パードゥン? ――もう一度お願いします。
短い。その差は歴然であった。しかもちょっとカッコイイと来た。大人っぽい色気さえ滲み出ているように感じられた。
でも、だからこそとも言えるけれど、僕はそれからも「ワンスモアプリーズ」の方を愛用し続けた。問題はその溢れる英語っぽさだった。当時の僕の中に、というかおそらくクラス中がそういう雰囲気だったのではないかと思うのだけど、英語を下手に英語らしく発音するのは、国語の音読を感情込めてするのと同じで、恥ずかしいことのように扱われていた。カタカナ英語が大多数であり、大多数こそが正義だったのだ。うまげに発音する輩の英語は、陰で嘲笑の的とされていた。そんな僕らにとって、与えられた新たな呪文は、存在そのものが『英語かぶれ』であり、少し高度すぎるスキルであった。たまに使っている人を見ると、それはなんだか「ませてる」みたいで、僕らは無意識にその単語を敬遠していた。
二年生も終わりに差しかかった三学期のある日、英語の抜き打ちテストが始まった。
その内容に僕らは辟易した。英会話のテストだというのだ。僕らはかねがねペーパーテストの畑の子であった。喋ることを求められても、それが『テスト』になることは極めて稀であった。テストという響きが僕らの表現を萎縮させた。英語コミュニケーションの授業イコール楽チンという等式を抱いている僕らにとって、正しく喋ることは至難の業であるように思われた。……そういえば、僕らの、僕らの、とさっきから言っているが、それを直接友達に確認した訳ではない。それでも、その発表を受けての教室のざわつきを見れば、皆が動揺していることは想像に難くなかった。
出席番号一番の犠牲者を引きつれて、先生が嬉しそうに教室を出ていった。二番が青ざめている。一番との生死を分かつジャンケンに勝利した三十九番は、後ろ寄りの出席番号の生徒から賞賛の眼差しを浴びている。ちなみに僕の出席番号は三だった。順番待ちのために二番が名残惜しそうに教室を出ていく。一番の帰還が、すなわち僕への赤紙であった。僕はもうしばらくの後に、一番と立ち替わりに戦地へ赴いていく。ということは。ということはだ、ほんのちょっとの情報収集でさえ、ああ、ままならないのではないか――ああ。あああ。パニック。頭真っ白。突然膝が震えだした。
僕は唇を噛みながら、英語の教科書を開いた。その表紙の裏に挟まれた色褪せた再生紙を取り出す。折りたたまれたそれが、こんな時になかなか開かない。指が焦って言うことを聞かない。落ち着け。落ち着け落ち着け。半閉まりのドアの向こうに続く廊下に人影、まだ動くな動いてくれるな。四番と五番のゲラゲラ笑ってんのが煩わしい。押し寄せる恐怖に僕は思わず人差し指を舐める。親指とそれで挟んで擦ると、プリントはようやくその身を許してくれた。
ガラリ。その日常音が、僕の戦場へのいざないであった。
教室のざわめきが最高潮に達して、僕の混乱を更に助長する。一番がヘラヘラ笑いながら席に戻り、僕に向かって「行けよ」とアゴで言う。僕は立ち上がる。膝が。思わずプリントを握りしめる。ああ膝が。僕は歩きだした。きっとそれはぎこちない、初めて立ち上がった類人猿のような二足歩行になっていたに違いない。
授業中の廊下は、気温も景色も寒々しいものだった。廊下のつきあたりに存在する家庭科室の前に、丸イスがひとつぽつんと置いてある。テスト会場はあの扉の向こうだ。
通り過ぎる教室から響いてくるあんな声やこんな声をバックミュージックに、僕は静かに歩を進めた。しわの入ったプリントを開く。『授業で役立つ英語』と書かれたその紙の上で視線を滑らせ、右列の下から五番目と気持ちを合わせた。もうすぐ二年になる付き合いのそいつが、俺がいるから大丈夫だろ、と僕に微笑みかけてくる。
――『ワンスモアプリーズ』。
そうだ、そう言えばいい。何度でも、聞き取れるまで聞きなおせばいいのだ。僕にはこいつがいる。こいつさえいれば、向かうところ敵なしだ。そもそも聞き取れないのは先生のせいだ。指導力に問題がある。更に言えば、先生の英語の発音に問題がある。立ち聞きしたところによれば、オーストラリアからの交換留学生であるライアン・ブレイドマンくんは言ったらしい。オーストレィリアでハ、先生みタイに強イ、エクセンッ(多分アクセントのことだと思う)つけマセーん! ――つまるところ、先生は英語が下手くそなのだ。それを文句も言わず、僕らは聞き取ってあげている。聞き返すのはそう、何も僕らの過失ではない。
ついに家庭科室前につきあたった。丸イスに腰掛け、プリントに目を落とす。それが小刻みに震えている。ああ、寒いな。指先が一段と冷えるや。閉まりきった扉の向こうから、何やら声が聞こえてくる。すりガラス越しに二つの人影。僕は耳をそばだてる、その時、僕は僕の心臓が、異様な速さで鼓動していることに気付いた。ばくばく。ああ嘘だ。緊張なんてしていない。ばくばく。少し寒いから、そう、熱を生産しようとしてるんだ。気合いに燃えているのさ。ばくばく。ああもう、うるさいうるさい、静かにしやがれ。
笑い声が聞こえた。人影が動いた。僕は反射的にものすごい勢いで立ち上がった。勢い余った。ふくらはぎに何か当たった。ヒヤリ? がんがぎゃん。無人の廊下に、倒れるイスの悲鳴が響いた。なんだこれ漫画か!
からからと引き戸が開いて、二番が出てきて、転がっているイスを見て、晴れやかな顔で僕を見た。こいつくそ、なんだその、まるで「何もかも上手くいったぜ楽勝!」とでも言いたげなオーラを纏った表情は。青くなってたくせに。僕より中間悪かったくせに。
ご丁寧にイスを直して、二番が廊下を去っていく。その背中を見やって、すると、僕の中になんだか、確信めいた感情がふつふつ沸き上がってきた――そう、この合戦、かなり余裕で僕の勝ちだ。当然だ。僕にはワンスモアプリーズがついている。二番にできて、僕にできないはずないじゃないか。
僕は一歩踏み出した。膝の震えは武者震いだ。指が冷たいのはそうさ、心にその温度をくれているから。心臓の猛りが僕を鼓舞する、いざ征かん、僕に幸あれ。
二番が開け放った引き戸を、僕が後ろ手に閉める。――さあ、楽しいイングリッシュの時間だ!
家庭科室の長机の一角に、それと不似合いな英語科の先生が一人笑顔で座っている。手元にはクラス名簿らしきものと、伏せられた何枚かのプリントが置いてある。先生が手招いた。僕はそれに応じながら、右手の中の『授業で役立つ英語』プリントをポケットの中に突っ込んだ。
『簡単な会話文だけだから。ちょっと成績入るけど、まあ軽い気持ちでやればいいので』
今や恋しきクラスルームでの先生の言葉が、ふと思い起こされる。
『そんでルールなんだけど、はい騒がない! コレ重要ね。家庭科室に入ったら、英語以外に使ったらダメです。日本語喋ったら減点だからね、気をつけてね』
目の前の先生が、英語で何か言いながら、手近なイスを指し示した。僕はそれに座った。先生は名簿を一瞥すると、どうしようもなく嬉しそうな顔で話しかけてきた。
「ハロー、ユウスケ」
僕は、言い淀んだ。
先程までの根拠のない自信、もとい強がりが、一瞬にして蒸発した。
そう、そこはもはや、いつもの家庭科室ではないのだ。英語のみに支配される、特別な情報空間。まさに未知の領域、人生における未踏の地であった。対峙する男は異国の野獣か、ともかく常識の通じる相手ではないのは確かだ。心から溢れんばかりに見えていたその笑顔も、だんだん貼り付けた能面のように思えてきた。
ポケットに手をつっこむ。君がそこにいる。ならば僕は平気だ。
ハロー、と返して、僕はこれ見よがしに、ハワイユー、と続けた。先生はニッコリと笑って、何か分からぬことを返した。この流れ。いつもの授業では、次に生徒はファインセンキューと返す。定石通りにやると、先生はウンウンと頷き、また訳の分らぬことを言った。第一関門突破だ。先駆け部隊を蹴散らした。なんだか自信が漲ってきた、よしいける、僕はいけるぞ!
それからもテンプレ通りの会話が続く。僕はやや詰まりながらもそれに答える。
『今日は何月何日?』『今日は何曜日?』『今何時?』『ところで好きなスポーツは?』もちろんインイングリッシュ。
僕が英語を返すたび、先生がウンウンと頷く。迷いのない動きで、名簿らしきものに何か書き込んでいく。僕は胸の中で、心臓がたぎるのを感じていた。
ああ、僕ってやつは、自分の能力をあれほど卑下しておいて、なんて憎い男なんだろう。クラスのやつらも、成績の競争相手である僕の大失敗を祈っているはずだ。期待に答えられなくて申し訳ない、悪いがここまで痺れるほどに完璧だ!
顔は火照って仕方ないが、気がつけば膝の震えは収まっていた。体がリラックスしているのを感じる。焦りから解放されていく。いい感じだ。このまま、最後まで、最後まで……
ゴチャゴチャと外国語を唱えながら、先生が伏せてあったプリントを一枚差し出す。僕は迷いなくそれをひっくり返す。そこにイラストがあった。どこぞの教科書に載っていそうな可愛げのないイラストだ……イラ、ス、ト?
先生が喋った。長い。僕は聞き取れなかった。
立て続けに先生が喋った。何か違う音だ。僕は聞き取れなかった。
ばくばく。心臓が踊り始める。な、なんだ? 今なんて? 先生はニコニコしてこちらを見ている。僕の解答を待っているのだ。つまり僕の喋る番だ。ばくばく。何か聞かれたらしい。何を? このイラストに関係あるのか? 僕はイラストに目をやる。ばくばく。うるさい心臓黙ってろ! ――それは、とある体育祭の一風景をデフォルメしたイラストであった。
その時、僕の脳神経を鋭い電流が駆け廻った。突然の閃きに、思わず僕は視線を落とした。冬の制服の、右のポケット。そこに君。囁く声。焦んなよ、俺がいるだろ?
僕は顔を上げた。先生は口角を上げ、きょろっと剥いた瞳で僕を見つめてくる。
「……ワンスモアプリーズ」
それは、僕の唱えるのに許された、最高火力の魔法であった。
先生は微笑みを浮かべる。それはまさしく天使のスマイル、でも見方によっては悪魔のうすら笑いだ。先生が肘をつき、身を乗り出す。僕はそのひび割れた唇を凝視した。
今度はゆっくりはっきりと、設問が繰り返される。……ッ、ウェザー? なんだっけ、そうか天気だ! 体育祭の空は灰色の雲が垂れ込めている。曇りです。えぇっと。え、えぇと……
「イッツクラウディー!」
イエス! 先生が拳を握った。僕も思わずガッツポーズを振る、いそうになるのをなんとか堪えた。ただ顔はにやけていたに違いない。ワンスモアプリーズの威力を、改めて思い知らされた瞬間であった。
先生が何か言う。僕がワンスモアプリーズする。先生がもう一度繰り返す。ぼんやりと輪郭が見えてくる。イ……、ほわっ……、がーる、どぅーいんぐ、……? 女の子、いんぐ? 視線をイラストへ。女の子は走っている。「イッツランニング!」先生が頷く。
先生が何か言う。僕がワンスモアプリーズする。先生がもう一度繰り返す。ぼんやりと輪郭が見えてくる。ふー……うぃずざぼーい? 男の子、うぃずざ……って何だっけ隣? 視線をイラストへ。そこには明らかに教師と思わしき人物。「イッツティーチャー!」先生が頷く。
あぁなんと素晴らしきワンスモアプリーズ! こんな有能な相棒を僕に与えたもうたマイゴッドに感謝したい。なんだか英語ができてるみたいだ。二番の清々しい顔の表すところも分かるような気がする。英語って楽しいのかも。僕がそんな風に血迷った時、先生が手元の半ピラを見て、次の設問を繰り出した。
「――――――?」
やはり聞き取れない。僕はすかさず呪文を唱える。
「ワンスモアプリーズ」
先生は呆れたように笑って、もう一度繰り返した。
「――――――?」
ぼんやりと輪郭が、輪郭が。あれ?
見え、て……こない。
ばくばく。煩わしいほど心臓が。膝が震えだした。見えてこない。先生が見ている。もはや偽りとしか思えない笑顔で。ばくばく。どうする。もう一度? もう一度、ワンスモアプリーズするか? あぁ、でも、『ちょっと成績入るけど』、この言葉が引っかかるのだ。何度も何度も繰り返せば、二度どころか三度も四度も聞かないといけないことを悟られれば。そりゃ成績は下がるに違いない。でも分からなかった。聞き取れなかった。ならばアイドントアンダースタンドとでも言えばいいのか。嫌だそんなのプライドが許さない。僕にだって、できないなりに譲れないものがあるのだ。ならばどうする? 僕は視線を落とす。右ポケットの中でしわくちゃになっているものを、ここに引っ張り出したかった。その折り目を、机の下でこっそり展開したかった。でも先生が見つめている。こんなにも見つめられている。一体どうすれば――突然、僕の視界に、ぽかんと口を開けたかわいいあの子の幻想が飛び込んできた。
胸が高鳴った。頭に血が上ったとは、まさにこんな状態だろう。しかしこれはとんでもない裏切り行為なのではないか。劣悪非道な行いではないだろうか。先生は僕をどう見るだろう、そして何より君は? 脳内で擬人化されたそいつが笑いかけてくる。平気だよ、いっちまえ。ああ。君は、君ってやつは!
僕は先生と視線を交わらせ、ぐっとヘソに力を入れて姿勢を正し、心を込めて、渾身の一言を発した。
「……パードゥン?」
しばらく黙っていた僕の口から発せられた響きに、先生は少し驚いたようだった。
パードゥン。それは、僕が避け続けてきた単語だった。英語臭すぎ、ませてるなどとはやし、使う輩を下に見た。しかし分かっていた。その内に秘めたる力を。パードゥンの持つ、潜在的なかっこよさも、漂う英語できてる感も。だからこそ僕は今、この禁忌を解放する。二度も繰り返させているという事実を少しでもくらますためには、パードゥンの力が必要であると信じたのだ。
先生は一瞬の間ののち、口を開き、ゆっくりはっきりと、三度目の読み上げを実行した。ぼんやりと輪郭が、ついに、ついに見えてくる。ドゥー、……、……、テント、……? テント。ドゥーが来たときはあれだ、イエスかノーかだ。二者択一。僕は視線を落とす。その稚拙なイラストの中には、テントらしきものが連なって描かれていた。
「イエス、アイドゥー」
先生は頷いた。ペンを走らせた。何か、肩の荷がストンと下りたような気分だった。乗り越えた……。疲労感が僕の心を融解する。およそ気の抜けた顔をしていたんだろう、先生はちらりと僕を見、それから次の設問へ移った。
「ハウメニーチェアズ――、キャリー――?」
反射的に口を『ワンスモア』の『ワ』の形に開いたが、僕はそれを一度閉じざるを得なかった。
思わず我が耳を疑った。……聞き取れた、のか?
火照った脳味噌がぐちゃぐちゃとかき混ぜられるように、僕は混乱していた。聞き取れた。そんなことあるか? 現にあったではないか。そこで僕は分岐点に立たされた。聞き取れた言葉を信じて、すぐさま解答するか。念のため、ワンスモアプリーズを使うか。しかしそれは愚問であった。なぜなら、それまで、英語の支配を受けた魔法の教室の中央で、僕の戦況は悪化の一途を辿っていたから。なんとか砲撃を逃れたとはいえ、二回聞き返してしまったことは取り返しようのない事実だ。鋼のシールドで押し切られ、前線がどんどんと後退していく。本陣がざわついている。ばくばく。沈黙に響く僕の鼓動が、なんて重い。急ぎ策を練らなければ。この状況を打開するために。だとして選択は簡単だ。ハウメニー、いくつですか。チェアはイスだ。キャリーって何だ? 聞き取れなかったところは? でも、分からなくとも、質問の意味はやすやすと理解できるではないか。
『イスの数はいくつですか?』
これだ。これに決まっている。聞き返し、減点を誘う必要性など、これっぽっちもないではないか!
僕は呼吸を整えた。膝はもう震えていない。頭はそう、さっき火照ったとはいうものの、今は至極冷静だ。どこからか再び自信が湧き上がってくる。先生が目を輝かせて僕を見た。その期待に答えてやる。僕だってやるときはやるんだ。息を吸い、身を乗り出し、僕はゆっくりはっきりと、胸を張って解答した。
「ファイブ!」
ニヤリ。
先生がそんな風に笑った。
……そこから一体いくらのやりとりがあったのか、僕はよく覚えていない。真っ白だった。テストの途中だと言うのに、完全に燃え尽きてしまっていた。ふと気がついた時、先生はセンキューと言って、それからまた何か訳の分らぬことを言って、ドアの方を指差した。退出命令。テストは終わったのだ。
僕は立ち上がった。激しい後悔で目の前が埋め尽くされていた。後悔後悔後悔。一歩とて動くことが叶わない。後悔後悔後悔後悔後悔。右ポケットがやたらと重い。ああ、もう一度、もう一度だけでも、やり直すことができれば。もう一回やりたい。あの設問だけでも、あのチェアの設問だけでも、やり直すことができさえすれば。僕はためらうことなく、ワンスモアプリーズを使うのに。僕はなんてバカなんだろう。先生の悪魔の含み笑いが脳裏にべったりと貼りついている。その後すらすらとペンを走らせる光景があまりに衝撃的すぎて。なんてこった、ああ、しかも、魔法の呪縛の部屋の外から、二番の声と四番の会話が聞こえてくるのだ。
「まじで、超簡単だから。ビビって損したって感じだわ」
「一番も言ってたな、皆も聞いた感じ楽勝だろって。まあ英会話とか楽に決まってるけど」
――あそこさえ、あそこさえもう一度することができれば、僕だって……!
猛烈な後悔の念が僕を取り巻いている。なぜワンスモアプリーズと添い遂げることができなかったんだろう。なぜ気を抜いてしまったんだろう。なぜ悪魔の追撃を許してしまったんだろう。もう一度、やれさえすれば。僕は、僕は。もう一回聞くのに。ワンスモアプリーズするのに。
突っ立っている僕に先生が怪訝な顔を向けてくる。僕の中で、『もう一度願望』の膨らみが臨界点を突破しようとしていた。そうだ、頼んでみればいい。今言わなければ、また僕はこれ以上の後悔に襲われるに違いない。言えばいいのだ。もう一度、と。唱えればいいのだ。魔法の呪文を。もう一度、お願いします。その呪文。僕を幾度も救ってくれた、頼もしすぎるその言葉を。
ホアッツアップ? 先生が目の前に立つ僕を見上げる。意を決して、僕は手中の切り札を、先生に向けて突き付けた。
「ワンスモア、プリーズ?」
先生はきょとんとした。
廊下を行く足音と、間抜けに掠れた口笛が、のどかに空間を流れていった。
先生は笑った。天使でも悪魔でもなく、ただちょっと小馬鹿にしたような、教師らしからぬ笑顔を浮かべた。そして言った。
「試験は終わりです、クラスに戻りなさい。そう言ったんだよ」
魔法の、解けた瞬間であった。
***
お粗末さまでした。
本当にあった学生生活シリーズ第二弾(!?)第一弾は二年前くらいで覚えてる人いたら普通に神 メンドーなのでもってきませんが加齢臭のやつです
中学のときの英会話のテスト(実際に受けたのは成績入らないよって言われて受けたんですけど 書いてる途中まで成績入らない設定だったんですけど)と、英検三級のしょうもない実技試験を組み合わせてつくりました。チェアの問題はそのまま当時の悔しい私です。そんなにワンスモア使ってなかったけどw
どーでしょうね。正直企画作品としてはそれほど間違ってはないと思うんですけど(
企画っていう枠を外したときにもうどうしようもない気がしてなりません。だから他もっていけないんですけど。
どうしようかねぇ。
そういえばこんなに長い一次かいたん初めてだわ。
あぁ嘘だひきものがあった。こんなに長い一次短編かいたの初めて。
ひきものって一次って意識全然ないんだよな。
バレンタイン前日ですーひきもの(※オフ小説でだれにもわかんないから君が知らなくても問題ない)で高ひきですー誰得ですー徹夜ですーふらふらですー
月蝕無理かなー^p^ついきからどうぞ
正直後半寝ながら書いたのでわやくそですいません 気が向いたら修正します
先に言っときますが読みづらいです あと気持ち悪いです
*
・高校一年冬
・笠原燈月、新木孝作、鈴鹿賢一、河合啓志の四人組は同じクラスでなんだかよくわからない友達
・新木は田舎から単身上京して一人暮らししている、そんな高校生
・燈月は甘いもんが好き
・鈴鹿の髪は黒い
・河合は背が高い
・今徹夜してたのがふいに目覚めた母親にばれてやばい(私が)
新木孝作が追いかけてくる。
*
お付き合いありがとうございました。まじで私も読み返してません。起きてから後悔します
なんだったんかっていうと高校生の燈月は携帯を持ってないんだって言う話でした。
月蝕無理かなー^p^ついきからどうぞ
正直後半寝ながら書いたのでわやくそですいません 気が向いたら修正します
先に言っときますが読みづらいです あと気持ち悪いです
*
・高校一年冬
・笠原燈月、新木孝作、鈴鹿賢一、河合啓志の四人組は同じクラスでなんだかよくわからない友達
・新木は田舎から単身上京して一人暮らししている、そんな高校生
・燈月は甘いもんが好き
・鈴鹿の髪は黒い
・河合は背が高い
・今徹夜してたのがふいに目覚めた母親にばれてやばい(私が)
新木孝作が追いかけてくる。
燈月が逃げる。逃げる逃げる。ホームルーム終了直後の人通りの多い南校舎四階廊下を、ものすごい速さで駆けていく。足には自信があった。でも体力に自信がない。この二人の追いかけっこ、実は校舎二週目であった。ホームルームが終わって、河合啓志が嬉しそうに肩つっついてきて、ねぇ明日バレンタインじゃん、靴箱も机も綺麗にして帰らなきゃ、なんてばかげたことを、本当にお前馬鹿じゃん俺らならまだしも河合には絶対ないから安心しろなんて口が裂けてつい言っちゃった矢先に、ずかずか近づいてきて、がしと燈月の肩掴んだその男が、あんまりにも、例えば「俺お前のこと好きだ」とか言い出しそうなくらい気迫に満ちた切り詰めた表情だったから――まぁそれが新木だった訳だけど、それで燈月は自分でも訳も分からず逃げ出した。ホームルーム中にまとめておいたのを反射的にひっつかんできた通学用のサイドバッグが、背中の方でぼんぼん揺れる。邪魔だ。そんなこと思う間に、運動神経もそれほどよくないはずの新木が、ゼェゼェ言いながら必死の形相で迫ってくる。どうなってる。燈月は酸欠の頭で心当たりを探り続ける。何にも突き当らない。どんどん足が重くなる。あぁ憎むべき持久力のなさ。廊下に広がってしゃべくってる女子の間を左右かき分けながら抜けていく。新木の息遣いが迫ってくる。もう今日コイツどうなってんの!
ついに伸びた腕が燈月の肩を掴んで、二人はそのまま取っ組みあった状態で廊下の上にひっくり返った。
燈月はちょっと状況が理解できなかった。仰向けに転がった燈月に跨る格好で、新木がその両手首を制圧している。マウントポジション。いろんな意味で心臓があらぶっている、廊下を行き交う人の視線が、ああ視線が痛いよう……脳内イメージの世界ではほとんど涙を流しながら、燈月は眼前の男から顔を背けた。新木が近づいてくるよう。眼鏡の奥の瞳が異様な光彩を放っているよう。乱れた呼吸が顔にかかるよう……。なんだこれ。今日なんだこれ。新木は走ってのぼせたのか、それとも別の理由か、真っ赤な顔をして言った。
「燈月……実は俺」
「ちょ、何してんの」
二人はばっと顔を上げた。そこにヒクッと笑っている河合と、明らかに不潔なものを見る目をしている鈴鹿がいる。まさに救世主。その時に限って、燈月には二人がゼウスに見えた。
「助けて!」
「へ?」
「ほっとけ。帰るぞ」
黒いボサボサ頭のそいつが冷たく言い放って、でくのぼうの背中を押す。
河合はにへらと笑った。あ、じゃねー、とぷらぷら手を振って河合が、そしてこちらを見もしない鈴鹿の背中が去っていく。そう、真の地獄に神など存在しないのである。
「ちょっと待てそりゃねぇよ俺ら友達だろ友達の危機だろー!」
叫び声虚しく、新木は力無い燈月を無理やり引きずり起こすと、そのまま腕を掴んで男子トイレへ連れ込んだ。
下校前に用を足していた男たちが、どうにも雰囲気のおかしい二人連れが揃ってひとつの個室の中に消えていくのを見届けて、青い顔をして、いそいそとその場を離れていった。
ドアが閉まった。暗がりの個室の中で出口の向かいに追いやられた燈月は、なんとか距離を取ろうと便器の横の空間に体をねじり込んだ。がちゃり。新木が後ろ手に鍵を閉めた。
「い……いやいや、いやいやいやいや、あああ新木? 新木くん?」
自身が錯乱しているのは燈月もよく分かっている。でもそれよりも目の前の男の頭の中が心配だった。逆光で黒ずんで見える新木の顔が、その中の二つの光が、獣のようにぎらついている。なんだこれ。なにこの状況。ヤダ、貞操の危機? ケータイ小説のワンシーン? 俺これでも男の子なんですけどねハハ、新木がずいと迫る、ハハッいやだから男だっつうのお前も男だろうがしっかりしろ気を確かに持て!――驚きのあまり言葉が全く声にならない燈月の前に差し出されたのは、彼の携帯電話であった。
「は」
「見て」
見た。液晶の中にあるのは、可愛らしい小箱に収まった綺麗な焼け色のガトーショコラだ。
燈月はそれから新木を見た。己より少し背の高い彼は、てんで真剣そのものである。
「……、が?」
彼の反応を待っていたかのように新木は携帯を戻し、ぽちぽちいくつか操作すると、もう一度燈月の方へと差し出した。それを覗きこむ。それは一通のメールであった。
差出人:小町
件名 :Re2:
本文 :
バレンタインのチョコ
送ったょ
14日にわとどくと思う
超がんばったけど
あんまり期待しないでね
東京でがんばってる
こちゃんに
こまちの愛とどけ
「……よ、よかったね……?」
そんなものを見せつけられてどうしていいのか分からない燈月が適当な言葉を返すと、新木は大げさに溜め息をつき、ぱたんと携帯を閉じて肩を落とした。
「なぁ、俺、これにどう返信したらいいと思う?」
「……え、え?」
「いやさ、これってさ、彼女14日にケーキ届くもんだと思ってるよね? 俺の手元にはもう手作りケーキがあるんだよ。これってもう届いたよありがとうおいしかったって返したらがっかりするよね? でも嘘つきたくないんだ、俺」
「……あ、あぁ……なるほど……」
「分かってるんだ、幸せな悩みだって……日本には河合みたいにチョコが貰えなくて苦しんでる人もたくさんいるっていうのに」
「お前……」
「でも俺さ、真剣に悩んでるんだ、こんなに。14日まで待って返したらいいのかな? でもなんていうか、俺流ルールというかさ、半日以上メール返信滞らせないって決めちゃってるから、不安にさせちゃうかも……どう思う?」
「お前……いや、俺か……俺……俺バカだわ……」
そう言ってへなりと便座の上に座り込んだ燈月の肩を、新木はすがりつくようにもう一度掴んだ。
「なぁ頼むよ、どう返したらいいかな俺」
「なんで俺に聞くのそれ」
「えーだって、あの三人の中で言ったら燈月が一番こういうの分かってそうだし」
そりゃそうだ、と燈月は残りの二人の顔を並べた。鈴鹿がお勉強以外にほとんど興味を示さないのは今に始まったことではないし、河合はおよそゲームの中の彼女としかお付き合い経験がない。
「あー……」
「それに、こういうこと相談できるの燈月だけなんだよ」
燈月は懇願する彼を一瞥すると、しぶしぶと再び携帯の画面を覗きこんだ――その相談をなぜ便所の個室でやる必要があるのかはちっとも分からなかったが、そんなことこのノロケ男に問いただす方がどうにもくだらない気がした。うーんといささか唸ったフリをして、燈月は用意していた答えを返す。
「楽しみにしてるーって送って、14日になったら届いたよーありがとーだいすきーってすればいいんじゃない?」
「でも、俺、地元にカノジョ残してきたじゃん。遠距離って、なんっていうか、会えない分、あんまり嘘ついちゃいけないような気がするんだよね」
「でもいる嘘もあるよ」
「そうかな……」
「あるある。他人のこと好きでいるにはさ、良い嘘が時には必要なんだって」
言ってから自分の台詞から漂うアレやコレに辱しめられつつ、どう、と燈月は顔を上げる。うん、と新木は頷いた。そうしてぽちぽち返事を打ち始めた。まだ個室から出してくれる気はないらしい。
電波の向こうの彼女を思って文面をつくる恋する新木の顔を眺めながら、燈月は先程自分が吐いた言葉について考えていた。良い嘘。常日頃嘘ばかりついている。鈴鹿にも河合にも、もちろん新木にだって、そうだ。付き合いの長いミーナや『オバサン』『兄弟』にだってそう。そんでも、その嘘は良いとか悪いとかじゃなく、ただ単に保身のためのそれであって。
送信、と呟いて送信ボタンを押した新木は、満足気に微笑んで、助かりました、と小首を傾げた。燈月はその手から携帯電話を奪い取った。新木が覗きこむ前で、燈月は慣れない手つきで、新規メール作成画面を呼び起こした。
「――ウワッ、妹からパシリメールきた。板チョコ買ってこいだってさ」
下駄箱の前で念のため自分のの埃を落としつつ携帯を見やる河合の横で、心底どうでもよさそうに、あっそ、と返事をする鈴鹿は、トントンと靴を履きながら呟いた。
「あいつらあそこで何してたんだ?」
「えっ、いや、今更?」
「ヤバイ関係なのか」
「ないない、ってかあるとすげぇ困る!」
笑いながら送った目線の先で、鈴鹿は上履きを下駄箱に戻して、そのまま立ち去ろうとしている。
「鈴鹿」
「何」
「下駄箱掃除しないの?」
「どうして」
「どうしてって、ホラ明日……」
その時ポケットで鳴りだしたバイブに、河合はうんざりした顔で再び携帯を取り出した。
ぱかと開いて見た画面に、あれ、と声を上げる。鈴鹿は怪訝そうな視線を送った。
「新木だ」
「なんだって?」
「あ、いや、燈月だ」
「燈月?」
二人で小さな画面を覗きこむ。差出人は新木孝作、しかし件名欄に「ひつき」と書かれたメールの白と黒だけの本文には、「さっきはああ言ったけど、明日は大きい袋もってきたほうがいいよ!」とだけ綴られていた。
どういうことだ、と首を傾げる鈴鹿の隣で、河合は笑い声を上げた――その時、鈴鹿はふと鞄に手を突っ込んで、すぐに引き出した。その手に握られた携帯の画面が光っている。
「こっちも燈月からだ」
「えっ、何何」
河合が覗きこむ前に、鈴鹿がその文面をつらつらと読み上げる。
「明日はバレンタインだね、言い忘れてたけどお前明日大きい袋もってこいよ、一応俺も持っていくけど、お前多分今までのバレンタインと比べ物にならないくらい山のような甘いもの貰えるから、鈴鹿甘いもん嫌いだよね、大丈夫俺が貰ってあげるから、一対三くらいで山分けしよう、じゃあね明日楽しみにしとくね――なんだこれ」
理解に苦しむと言わんばかりの鈴鹿に見えない位置で、こいつ鈴鹿にだけマジじゃねぇかよ、と河合はこっそり呟いていた。
*
お付き合いありがとうございました。まじで私も読み返してません。起きてから後悔します
なんだったんかっていうと高校生の燈月は携帯を持ってないんだって言う話でした。
カレンダー
アンケート
最新コメント
[06/03 きたのとら]
[06/03 浮線綾]
[03/08 すなば]
[11/12 もの]
[07/20 Brandonmub]
最新記事
(03/29)
(01/12)
(12/27)
(10/29)
(10/22)
最新トラックバック
プロフィール
ブログ内検索
アクセス解析
Powered by Ninja Blog
template by Temp* factory phot by FOG.
cat of model by Cat Cafeねころび
忍者ブログ [PR]